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初代鬼峠

壮絶な尾根越えの生活道路(2013.3.24訪問)

初代鬼峠の歴史

占冠村ニニウは鵡川本流の峡谷に挟まれた小盆地である。かつて「陸の孤島の中の孤島」と呼ばれ,鬼峠と称する約12kmの山道が占冠本村との間をつなぐ唯一の道だった。

ニニウで殖民区画の貸付けが始まったのは1907(明治40)年である。全道的に見ると早くはないが,地理的条件を考えると意外に古い歴史を持つ。当時の殖民公報には「目下交通甚だ不便なり」とあり,同時期に設定されたほかの殖民地と比べても交通の不便さが際立っていた。

それでも殖民地に指定されたのは,夕張に近く石炭が埋蔵されていることが確実視され,近い将来鉄道が通ると予想されていたこと,また気候や水利,土地条件も比較的恵まれていたからである。

ニニウに入植したのは,そうした将来性のある土地で自作農になろうという夢を持った人たちだった。おりしも,全国的な新聞紙の需要増加に伴い王子製紙が1910(明治43)年苫小牧工場の操業を開始,ニニウを含む鵡川流域がパルプ材の供給地となったため,急激な人口増加を見た。

一方で,炭鉱ができ鉄道が通るという見込みは外れ,落伍者続出の形勢を示す。せめて児童の教育によって土着心を養おうと,1911(明治44)年入植者ら自ら新入(ニニウ)教育所を開設。この年ニニウ神社も創祀され,郷土としてのニニウが形成された。当初ニニウへは苅分け道路があるのみだったが,初代鬼峠はこのころニニウから経木を駄送するため,工場経営者が一人一升ずつの米を出すことによって道路工事をしてできた道と言われる。

以来,2代目の鬼峠ができるまでの約20年間,ニニウの人たちの生活道路として使われ,様々な伝説を今に残している。

初代鬼峠を歩く

占冠村役場の西約300mに村発祥の碑が立つ。ここを南北に通るのが1901(明治34)年に設定されたシムカプ原野の基線で,もとはこの基線を南へ鵡川に突き当たるまで進んで渡し船で鵡川を渡っていた。いまは道の駅のある交差点から道道を西に歩き,青巌橋を渡るしかない。

「占冠村発祥之地」の碑。峠入口との間にある渡し船は戦後まで続いた。
尾根沿いの林道を上る。

しばらく鵡川沿いに歩いて2代目鬼峠が右に分かれると,間もなく初代鬼峠の入り口である。目の前に北海道横断自動車道の鬼峠橋が横切っている。峠の入り口からしばらくは,現在ソーウンナイ林道と呼んでいる道が,もとの初代鬼峠だと思われる。さんざんパルプ材を伐り出した森であるから原生林には程遠いが,気持ちの良い森の中を行く。

途中,直径2m近くはあろうかというハリギリやミズナラの大木がある。道沿いのしかるべきところに存在しているようにも見え,何らかの理由があって残されてきたものだろう。やがて林道は途切れ,植林された森の中を数百m進むと峠の頂上である。ここに小さな小屋があったという。

道沿いの巨木。残るべくして残ったものだろう。
峠頂上。稜線を走る「ふるさと林道鬼峠線」が横切る。かつては休み小屋があったという。

頂上からしばらくなだらかな道が続くが,やがて急な下り坂となり,ペンケニニウの谷に落ち込んでいく。「稲妻道」とも呼ばれたジグザグ道で,いまその道を正確にたどることはできない。もはや立って歩くことは困難で,なるがままに滑り落ちるしかない。「斜面をまっすぐに滑って下の道へ近道した」とか「馬が坂道を滑ってしまったが,ダグラが地面に食い込んで下まで滑り落ちなくてすんだ」などの記録が残るので,昔も同じような感じだったのだろう。

それでも集落をつなぐただ1本の道であるから,生活物資やわずかばかりの換金作物はすべてこの道を通った。馬を使うこともあったが,背に積めるのはせいぜい100kgで,多くは人が背負って運んだのである。

送電鉄塔の下でニニウ集落を一望する。
稲妻道と言われた辺り。花嫁道中がここを下って行ったという話しも残る。

頂上から高低差で約450mほど下り,ペンケニニウ川沿いの林道に出る。林道を南に約1km歩くとかつて学校や官設駅逓のあったニニウ集落の中心部に着く。

ニニウ側の登り口。いきなりの急登に驚く。
1917(大正6)年開設の駅逓跡。のちに旅館となった。

現在の利用状況

1920年代末(昭和3~4年頃)に廃道となってからまったく使われていなかったが,2008(平成20)年2月に有志が道筋を検証し,2012(平成24)年と2013(平成25)年の鬼峠フォーラムにおいて初代鬼峠越えを実施している。いずれも積雪期に歩いているため,当初の道の痕跡は明らかになっていないが,ひたすら尾根を行く峠道のため,ルートは明快である。2020(令和2)年現在,古道としての整備は行われていない。

鬼峠の名前について

鬼峠という名はいまのところ誰が付けたのかわかっておらず,その険しさから鬼の名がついたのではないかと想像されるのみである。鬼峠の名の初出は1921(大正10)年発行の陸地測量部地形図である。これより前,1915(大正4)年の「点の記」には初代鬼峠の道筋が記載されているが,峠の北約300mにある三角点は「新入峠」と名付けられており,この時点では調査者は鬼峠の名を認識していなかったものと思われる。ただ同年村内に設置された三角点に「鬼ノ沢」があり,ニニウには「鬼流橋」も架かる。何らかの鬼に関するいわれがあったのかもしれない。

占冠本村とニニウをつなぐ道は次のような変遷をたどっている。

(1) 草分けの道: 明治41年から初代鬼峠開削まで

(2) 初代鬼峠: 明治44年~大正初期の開削

(3) 2代目鬼峠: 昭和3年~昭和4年の開削

(4) 鵡川沿いの林道: 昭和29年から開削,昭和35年開通

本稿では便宜的に初代,2代目と言っているが,時代によってどの道を鬼峠と呼ぶかはやや混乱がある。1963(昭和38)年の「占冠村史」では初代の道を鬼峠,2代目の道を「旧道」と呼んでいる一方,2003(平成15)年発刊の郷土逸話集「しむかっぷでむかしむかしあったこと」では,2代目の道を鬼峠とし,初代の道を「鬼峠さえまだない頃」の道,「稲妻道」などと記述している。