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1. 金山市街

●2013年3月23日(土)

富良野駅前9時25分発の占冠村営バス。今年は11時に湯の沢温泉集合と,余裕のあるプログラムだったので,普通に朝旭川を出て,バスで向かっても間に合う。

金山(かなやま)市街を通過。空知川はここで東に折れて深い渓谷に入り,正面には石狩・胆振国境金山峠が控える。国鉄石勝線が開通するまでの約80年間にわたり,金山はまぎれもなく占冠の玄関口だった。のちほど12時から,ここ金山でワークショップが行われることになっている。

10時26分,湯の沢でバスを降りた。

湯の沢温泉は指定管理者への委託運営となり,昨年9月29日にリニューアルオープンした。鬼峠越えの隊長でおなじみの細谷さんが支配人を務められている。集合時間まで30分ほどあったので,ロビーで待たせていただいたが,たくさんの従業員の方が,開館前の準備で忙しそうだった。

今回,鬼峠フォーラムで初めて金山峠を越えることになったのもまた,湯の沢温泉の縁である。金山峠を越えて温泉に来る古いお客さんの中には,昔は歩いて金山峠を通っていた方もいたそうである。車やバスもなくはなかった時代に,どうしてあえて歩いたのか,その意味を考えたいという細谷支配人の問いかけであった。

11:00 湯の沢温泉集合

しむかっぷふるさとふっつくふくらむ協議会の会長である山本さんの趣旨説明により開会。一人ずつ簡単な自己紹介をした。

毎年のように参加されている方もいれば,初めての方もいる。今年は道新の旭川・上川版に告知記事が載ったが,記事を見て参加されたのは旭川在住の方1名だった。

ニニウ生まれの会田さんは今年もお元気で,金山峠越えから参加していただいた。

11時15分,村のバスで金山へ向かう。現在の金山峠は1971(昭和46)年11月に完成した金山トンネルで越えている。

20分ほどでJR根室本線金山駅に到着。

ちょうど滝川発釧路行の「日本一長い距離を走る定期普通列車」がやってきた。

12:00〜12:30 金山駅で金山在住の方から昔の話を聞く

 

講師は金山在住の佐藤籌子さんと増田輝男さん。お2人とも昭和10年代に金山で生まれ育った方である。ほか,南富良野町在住で2年前の鬼峠フォーラムから参加されている山名賢一さんにも説明を加えていただいた。

占冠にとっての金山の重要性はよく聞くところである。金山駅の開業は1900(明治33)年。金山から占冠へは20kmほどあるが,入植者の多くは鵡川をさかのぼるのではなく,金山峠を越えて占冠へ入っていった。金山駅前には旅館が何軒もあったという話や,役場の吏員がトマムに出張するのに,金山経由で2泊3日かけていったという話を聞くし,いまでも南富良野高校へ通うのに,金山駅でバスと列車を乗り換える生徒 たちがいる。

むかし栄えた金山とはいったいどんなところだったのか。あるいは金山からみた占冠はどんな存在だったのか。今日は,金山の盛衰を見てきた人たちから生のお話を伺える貴重な機会である。

以下,お話しいただいた内容を,基本的にそのまま引用しながら,『南富良野村史(1960)』『占冠村史(1963)』『富良野地方史(1969)』をもとに適宜説明を加えていきたい。


●砂金掘りについて

「明治24年の話です。砂金掘りに来た人たちは,本州の農家の次男三男坊が多かったんですね。1年間本州で働いたって,10円か15円の時代に,ここでは1か月10円の給料をもらったといいます。それほどのゴールドラッシュでした。金1(もんめ)(3.75グラム)が3円75銭の時代です。1匁あったら米1俵と酒1升買えたのです。換金するには,小樽の日本銀行まで行く必要がありました」
「砂金は十勝や日高のほうから人が入ってきて掘っていましたが,親方に出さないで,飲み込んだり,靴の中に入れたりしてごまかしたというような話も聞いたことがあります」
「私の父も掘っていたことがありまして,形見として砂金掘りの道具を持っています。『揺り板』から『カッチャ』,水の中を見る水眼鏡,あとハカリとか。いつか掘ってみたいなと,いい脈に当たったらね」
脇とよ:『新編砂金掘り物語』,みやま書房,1982.11

富良野地方に殖民区画が設定され,制度に則った開拓者が入植したのは1897(明治30)年のことである。しかし,和人が集団で来て,ある一時期滞在したという点では,砂金掘りの人たちが俄然早く,1889(明治22)年〜1891(明治24)年頃,トナシベツに入っている。このころ既に,砂金の出る川には鉱区が設定されて勝手に掘ることはできなかったが,採掘許可を得ていた雨宮敬次郎北海道砂金探検団が沙流川から鵡川上流を経て,空知川上流のトナシベツ地方まで来て砂金を採取した。この辺りの経緯は,脇とよ著『砂金掘り物語』に詳しい。

1900(明治33)年に金山駅が開業した時,既にゴールドラッシュは去っていたが,通常なら十梨別(となしべつ)が駅名となるべきところ,金山の名が付いたのは,いかに砂金掘りが盛んな地だったかを物語っている。その後,明治30年代から明治の末にかけて2回目のブームがあり,現在に至るまで,細々と採取が続けられている。

●富士製紙,雨竜発電,森林鉄道,営林署

「川の向こうに富士製紙がありまして,すごい栄えた時代がありました」
「雨竜発電がありました。いまもコンクリートの水槽が残っています。官舎や寮があって人もたくさんいました」
「金山駅のまわりは貯木場だったんです。そして林鉄がありまして,トナシベツという夕張岳に行くほうに走っていました」
「林業が盛んだったので営林署があったんですね。いまの『ふくしあ(特別養護老人ホーム)』が建っているところです。官舎,寮,売店もあって賑やかでした」
後藤新平の富士製紙金山工場視察(『南富良野村史(1960)』)

金山の歴史を語るうえで,欠くことができないのが,これらである。富士製紙の金山工場は,1908(明治41)年から1930(昭和5)年まで操業し,江別の製紙工場にパルプを供給した。工場には当初から発電設備があったが,金山市街も1920(大正9)年には電化されている。この地方としてはかなり早い電化で,金山から電線が金山峠を越して占冠に到達するのは昭和も戦後になって1957(昭和32)年のことである。

富士製紙は1933(昭和8)年に王子製紙に吸収される。雨竜電力株式会社とは王子製紙の傍系会社で,戦後1950(昭和25)年に富士製紙工場の用水施設を改造して発電所を建設し,1967(昭和42)年,金山ダムができるまで発電を行った。戦時中に民間が手掛ける電気事業は統合がなされ,戦後は北電により独占的に配電が行われるようになったが,いわゆる発電部門については北電以外の電力会社も存続していた。

富士製紙工場が閉鎖されるのと前後して,1928(昭和3)年,御料林(帝室林野局所管の森林)の森林鉄道敷設が始まり,1930(昭和5)年に完成,金山駅からトナシベツ川に沿って総延長12.3kmの鉄路が延びていた。廃止は1958(昭和33)年である。

南富良野は,営林署が2つあった町である。同じ市町村内に営林署が2つあったのは,ほかに上川,下川,滝上,芦別など数えるほどで,営林署は林業の町にとって圧倒的な影響力を持っていた。金山営林署は,1947(昭和22)年に設置され,金山地区のほか,占冠村のニニウ,双珠別,東・西占冠地区を所管していた。

こうして,砂金ブームが過ぎた後は,林業に沸いた時期が続いたのであるが,金山ダムが完成した1967(昭和42)年以降,金山地区の人口は減少の一途をたどることになった。

●金山駅界隈

「駅前には丸通(まるつう)がありました。吹き抜けの倉庫があって,肥料や物資が届くと,丸通の人たちが背負って,倉庫に下ろしていました」
「鉄道の官舎がたくさんありましたし,旅館も3件くらいありました。駅にも売店がありました」
「金山は保線の基地だったんですね。保線区もありましたし,通信の施設もありました」「給水塔もあったんです。給水の沢から水を汲んで流していました」「レンガでできた(あぶら)庫が残っています。ここではいちばん古い建物でしょうか」
「省営自動車ってあったのです。むかし鉄道省といっていたんですね。その跡がコンクリートで残っているのですね」
「商店街もけっこうありました。占冠から買い出しに来て旅館に泊まったり,金山から占冠へも行商でけっこう行っています。呉服物などいろいろなものを日高,占冠のほうに売りに行っていたようです。それで占冠の人たちとも交流がありました。占冠から金山にお嫁に来た方,逆に占冠へ行った方もけっこういます」

南富良野には下金山,金山,鹿越,東鹿越,幾寅,落合という国鉄の駅があり,それぞれの駅を中心として市街が発達した。このうち駅の規模が最も大きかったのは,狩勝越えの基地だった落合だが,次いで金山駅が大きかった。

話の中で,占冠との交流はやはり密にあったことがわかったが,日高という言葉が占冠と同じくらいに出てきた。金山駅は,占冠を越えて,日高までを経済圏に含んでいたのである。日高に鉄道が達したのは1964(昭和39)年と遅く,古くは千呂露(ちろろ)(沙流川最上流の集落)の材を金山駅から出したこともあるという。1923(大正12)年から右左府〜金山間に三国横断バスが運行されたことも,金山と日高の結びつきを強めた。そもそも,右左府の名は,アイヌ語のウシャップに,どちらにも道が通じるという意味で漢字をあてたもので,金山への起点にふさわしく,金山は占冠と日高の玄関だったのである。

話に出ていた省営自動車は,のちの国鉄バスであるが,金山に事業所があったのは1947(昭和22)年から1953(昭和28)年までの短い期間だった。三国横断バスは1943(昭和18)年から道南バスの運行となり,さらに金山トンネル開通後の1973(昭和48)年9月をもって,日高〜金山間の直通便が廃止され,双珠別〜金山間は占冠村営バスが運行を担うようになった。

この鏡は佐藤さんの子供のころからあったという 佐藤さんたちがクラス会で作った1951年〜1955年頃の金山マップ 駅の危険品庫。1911(明治44)年の築

●ニシンが占冠へ

「今日来れなかったのですが,92歳くらいになるTさんに話を聞いたところ,いちばん印象に残っているのは,ニシンが来たことだそうです。ニシンが金山駅に来て,スコップで馬そりに乗せ換えて占冠まで運んだそうです。その頃,冷蔵庫,冷凍庫もないし,占冠まで行ったら良い身欠きにしんになったのでは,なんて話もありましたが,それが今でも忘れられないと言っていました」

北海道でニシンが大量に獲れたのは1955(昭和30)年ごろまでで,団塊の世代くらいまでは,ニシンを箱買いしたという記憶を持っているようである。しかし,そのニシンを届けるのにどういう苦労があったか,身欠きニシンにするのにどうしていたかという話になると,もう80代以上の人でなければわからない。

春を告げる魚とも言われるニシンは,春先になると無蓋の貨車(石炭を運ぶような屋根のない貨車)で金山駅まで運ばれてきた。それを占冠へ届けるのに,スコップでニシンをすくい上げて馬そりに載せ替えるのだが,時間も限られているので大変な作業だったという。占冠に着いたニシンは,各家で箱買いして身欠きニシン(ニシンの干物,冷蔵庫がない時代の保存の手段)にした。鬼峠を越してニニウへも運ばれた。ニニウの会田さんによると,干したニシンに寄りつくカラスを追い払うのが,その頃の子供の仕事だったという。ニニウは秋味や川魚が豊富に獲れるところだったが,塩が手に入らなくて苦労したという。その意味でも,保存食としての身欠きニシンは貴重なものだったのだろう。

ニシンに限らず,占冠に届けられる物資の多くは金山駅を経由して入ってきており,石炭なども人力で載せ替えを行ったいたというから大変なことである。

●金山峠

「むかし金山峠は馬鹿曲りって言ったんですよね,私ら子供の頃。そして遠足なんかで行ったものです」
「里標があったね。右がウサミ沢,左がシャクナゲ沢,あの手前のちょうど登り口が1里標。里標と言っても何かあるわけではない」
「その当時はまだ茶屋があって,お守り代わりに茶屋に連れていかれました。茶屋にあるものといったら鍋焼き(うどん)くらいだね。(逓送をやっていた父が)金山からうどんを買ってこいと言われて持っていくのでしょうね。ご飯は出ていなかったような気がするね。お茶はありました。金をとったかどうかはわからないけど」
「茶屋の大きさは,金山駅の待合室くらいはあったかもしれないね。電気はないからランプで。お金のある人は逓送に乗って,お金のない人は歩きだから,茶屋で必ず休んで」
「昔の人は足が丈夫だったから,直線コースをとるんだってね。歩く道があったらしいね,そこを走って汽車に乗ったというような。道路は48だか50だかカーブがある馬鹿曲りだったけど,まっすぐに行ったら3分の1になるから」

金山峠については,これから実際に旧道を歩いて越えるわけだが,「馬鹿曲り」「里標」「峠下の茶屋」といった歴史が,いまも地元の人たちの記憶の中に生きていることを知った。馬車が通る道とは別に,歩く人だけが通るショートカットの道があったこと,そしてより正確に言うならば,歩くだけではなく,走ることもまた常だったこと(自分の足が唯一の交通手段になったとき,人は走るものである)。これらもいまでは忘れられがちな事実である。

逓送(ていそう)について

「うちのおやじが昭和5(1930)年だと思いますが,栃木県からここへ来たのです。そして(昭和)7年ころだと思うのですが,逓送を始めたのです。定かではないですが,郵便局も請負制というのか嘱託というのか,公務員ではなかったのです。終戦前までは(占冠の)中央まで馬で行って,1日1回だったのです。毎日の仕事で休みがないので,馬は3頭も4頭もいて,交代交代で使いました。終戦後は(占冠の)中央からと金山からと時間を決めておいて峠下で交換するようになりました。そのときから,午前と午後の2便になったのです。茶屋まで約2時間。走れば早いが,馬がのびちゃうから」
「もともと夏,冬(逓送を)やっていたんです。ところが,(昭和)35年頃でしょうかね,道路事情が良くなって,除雪もするようになって。それでも冬はダメだったんですね。夏は道南バスが郵便物を運んで,11月から4月頃まで冬だけ(の逓送)になったのです。そして(昭和)42,43年で完全に逓送がなくなりました。やっぱり除雪体制が悪かったから,冬はそりを引っ張っていくけど,雪が深かったらソリも効かないから,裸馬に乗って行ったものです。馬だったら大概は行ける。馬っていうのはレーダーみたいなもので,向こうから馬が来たら止まってしまうのですね。交わすためのよけ道というのがあるのですが,馬は慣れているので,人間の耳に聞こえなくても,馬はちゃんとよけ道に入って動かないのです。そうするとそのうち車が来る,すごいものだね。冬はそりで,夏は馬車。それといま時期がいちばん悪いのだけど,ここら辺は雪が融けちゃうので土そり,そして4キロくらい行ったところでそりを切り替えるのです」
「占冠,日高に行くのは嫌でした。なぜかと言ったら,占冠や日高から馬が何十頭も連なってくるのです。逓送というのは時間で歩くものだから,逓送が行ったら,(向こうから来た馬は)全部よけなきゃならない。(逓送が)優先だったのです。いまの救急車みたいなものです。こちらは一頭なんだけど,向こうは何十頭,でも絶対よけなければならない。だから,日高,占冠へ行って,名前を聞かれると,ひどい目にあったものだと言われて。それを言われるのが嫌であまり名前を出さなかったのです」
「(増田さんは)逓送の神様と言って,日高までこの界隈で知らない者はいませんでした」
「逓送しか交通手段がなかったのね。そしたら,金山で汽車を降りたお客さんのバス替わりだったのです。そりに5人も6人も乗せて,湯たんぽをたんがえて。アンカは危ないから使わなかった。一人何ぼもらったのだろうね」
金山占冠間逓送(『南富良野村史(1960)』)

ここでいう逓送とは,逓送人が担った郵便物の輸送のことである。鉄道やバスの便のない遠隔地において,郵便局と郵便局の間,あるいは郵便局と遠隔集落との間で,専門の逓送人が徒歩や馬での郵便物輸送を担っていた。

1960年刊行の『南富良野村史』に「駅逓と言えば逓送人のことを思い出すが,金山−占冠間の逓送は今日まだなくなったわけではない。最後の増田は自動車託送によるある期間の休みはあっても集配を兼ねて今も金山占冠間を逓送している。峠下で占冠側の永井政一と中継するが,逓送の神様として人々に親しまれている」とある。ここに出てくる増田氏が,講師の増田さんの父親で,最後の頃には増田さんも逓送を手伝うことがあったという。逓送が人々から疎まれる存在だったというのは,逓送をやっていた本人からでなければ聞けない話で,まったく意外なことだった。

1954(昭和29)年から旭川開発建設部が金山〜占冠間の除雪を行うようになるが,まだまだ除雪は不十分だったらしく,昭和40年代まで冬季は馬そりでの逓送が行われていたという。ニニウのような山奥ならまだしも,4000人を擁した占冠村の役場所在地への逓送が昭和40年代まで馬に頼っていたというのもまた驚きだ。

金山から送られた郵便物が,2人の逓送人により占冠に届けられ,そこからさらに鬼峠越えの逓送を行っていたのが会田さんの先代であった。恐らく,人類史上最も多い回数,金山峠,鬼峠を越えたのは,それぞれの区間を担っていた逓送人であり,そうした人たちを先代に持つお2人が,これから金山峠,鬼峠を越えようとするいまこの場に居合わせていることは,深い感銘を与えるものであった。


しばらくして,金山在住リトル・トリー大野さんのお父様が,古い写真を持ってやって来られた。お会いするのは第1回目の鬼峠フォーラム以来で,今日は金山住人代表として3世代で参加されている。

写真にはホロカ−イクトラ,S25.3とあった。人の背丈よりも高く積まれた3本の丸太を1頭の馬で引いている。長さ3.6mの丸太が1本の木から10本切り出せたとき,お祝いをしたそうだ。樹高40メートル級の木でなければ無理な話だが,そんな木がこの辺りにはごろごろしていたという。

話が盛り上がって,予定の時間を少し過ぎてしまったが,12時40分,金山駅をバスで発ち,金山峠へと向かった。


2. 金山峠旧道