トップページ ドラマ「鬼峠」について ストーリー 登場人物 ロケ地マップ

道としての「鬼峠」について

ドラマ「鬼峠」はドキュメンタリーの性質が強く,大筋当時の実情をよく反映しているが,最大のフィクションは当時既に廃道化していた鬼峠が現役の交通路として登場していることである。ニニウと占冠本村を結ぶ鵡川沿いの道道(現在の道道136号夕張新得線)は昭和35年に開通しているが,ドラマではこの道路の存在は無視されており,ニニウと本村は今なお鬼峠で結ばれているという設定である。

鬼峠は正面の山をまともに越えて行く。

鬼峠には2世代の道がある。初代は「稲妻道」といわれたジグザグの刈り分け道で,チズが嫁入りした時はこの道を通ってきたわけである。2代目は昭和4年に開通した馬車道で,昭和35年に鵡川沿いの道道が開通するまで使用された。距離については文献により違いがあるが,ペンケニニウの分岐から弓立の沢までの実質の峠部分が2里(約8km),ニニウの駅逓から占冠中央までが4里(約15km)ほどだったと思われる。2代目の道になって馬車が通れるようになったが,何度も荷がひっくり返って峠を越えるのに5〜6時間かかったという。いずれにしても標高6百数十メートルの山を越す険しい峠道が村と結ぶ唯一の生活道路だったわけで,それがニニウの特殊性を決定付けている。

実際の鬼峠は自動車の走行できる道ではないが,ドラマの中では車道として扱われており,広は自動車で鉄夫の家を訪ねている。一方,紀子は歩いて鬼峠を越えているが,熊が出る15kmの山道を女性が一人で歩くというのはあまり現実的ではない。またチズは畑仕事が終わった後,鬼峠を歩いて長靴を買いに行くが,これも無理がある。つまり,ドラマでは鬼峠が過小評価されているということだが,そのまま表現したのではドラマにならないほど実際の鬼峠は厳しかったということでもある。

鬼峠頂上付近。近年占冠本村側から峠まで舗装され,車で行けるようになった。

ただこんなエピソードも残されている。

「小学校5,6年生の頃だろうか,中央にできた劇場に演劇や映画を観に行った。行くか行くかと声をかければ,おう行くわと15,6人にもなって,夕方農作業を終えてさっとご飯を食べたら,間に合うようにとみんな小走りに鬼峠を2時間で越える。外灯なんてもちろんないけど,ランプも持たずに月明かりの中を行ったんじゃなかっただろうか。暗いから何度もつまづくし,10時過ぎまで見終わってまた走って帰ってくると夜中の1時を過ぎていた」(『しむかっぷでむかしあったこと』占冠村,2003.3)

元気な若者であれば走って3時間程度で村に出ることができたようである。

チズのモデルとなった女性

原泉が演じている小橋チズは実在の女性をモデルにしている。昭和59年6月北海タイムスに連載された「占冠の女」に登場するSさんがその人である。ドラマの中でチズが嫁入りの時のことを独白する場面があるが,その内容はSさんが新聞で語っていることそのままである。

北海タイムス「占冠の女(1)」より   ドラマ「鬼峠」 チズの独白
 Sさん(84)が福島県の同じ村出身のTさんの所へ,たった一人で嫁入りして来たのは大正7年,18の春だった。
 3日間汽車にゆられ,根室本線金山駅について駅逓に1泊。
 舅がね,5年たったら必ず北海道引き揚げるから嫁に来てくれって言って福島の村に迎えに来た。18の春,3日間汽車に揺られて根室本線金山駅に着いて,駅逓に一晩泊まって。
 翌朝おかみさんに髪を結いなおしてもらい,わらじを渡されて占冠村へ向けて歩き始めた。みぞれが降っていた。四幅のふろしき包み一つが嫁入り道具。それを背に蛇の目のから傘をかざして,舅の後に続いた。
 踏み分けの峠道を,上がったり下がったり,道は果てしなく続き,「クマが出る」と聞かされていたSさんは恐ろしかった。
 あくる朝,おかみさんに髪を結いなおしてもらって7足のわらじ持たされて,山道を上ったり下りたり。
 峠を越えるまで5時間,峠下には2軒の茶屋があった。舅は「息子の嫁」と紹介し,コップ酒を頼み,Sさんにはうどんをとってくれた。「いい嫁もらって」の声を後に,隣の茶屋にも入っていった。またコップ酒を頼むそばで,心細さが募った。  5時間くらい歩いたら2軒の茶屋が見えてきて,舅は1軒ずつコップ酒を飲んで,せがれの嫁だって私を紹介してくれた。私にはうどんを取ってくれてねえ。舅はいい嫁だいい嫁だってほめられるものだから嬉しくなって,コップ酒を飲んでふらふらになって。
 酔って千鳥足の舅の後について,歩けど歩けど人家はなく,早い春の日は傾き始めた。「山奥とは聞いていたけど,家がないなんて,キツネにだまされたかな」と内心思った時,遠くにホタルの火のような灯りが二つ,三つ見えた。しかしそれは道筋の開拓農家で婚家はさらに奥だった。
 歩きつめてようやく家にたどりついたのは夜8時を過ぎていた。道草の分を差し引いても,11時間はかかっている。まっくらになってしまったので,外の様子もわからないまま。
 ところが舅はまた千鳥足で歩き始めたんだ。それからなんと6時間。もっと山奥に入って鬼峠越えて,ここへ着いたのは真っ暗,ちょうど7足目のわらじの緒が切れてた。
 家には両親,夫と二人の妹,母方の小さな夫や妹が三人いた。婚礼のまねごともなく,二間切りの掘っ立て小屋の,しぶしぶと生木が燃える炉のそばで寝た。  その晩は祝言もなんもなくて,掘っ立て小屋の炉のそばで雑魚寝させられた。
 次の朝,外井戸のつるべを引き上げ,顔を洗っていると舅が出て来て「お前な,前に見える山と,一生にらめっこして暮らすんだぞ」といった。Sさんは,思わず泣き伏した。だまされたと思った。
 遠い北海道の,そのまた山奥まで嫁に来たのは,もらいに来た舅が,「5年たったら,かならず北海道から引き揚げて故郷へ戻る」といった,その言葉を信じたからだった。
 あくる朝,外へ出てみてびっくりした。どっち向いても山ばっか。驚いている私に向かって舅がこう言ったもんだ。「おめえな,前に見えてる山と一生にらめっこしながら暮らすんだぞ」って。思わずその場で泣いてしまった。こん時だけだ,泣いたのは。あくる晩は納屋の隅にわら敷いて初夜を迎えた。それっきり泣いたことはない。そん時から鉄道の通ったときまで,この村ずっと変わらなかったんだ。

Sさんの家はニニウではなく,占冠中央市街から約2km双珠別寄りのところにあった。したがって,チズの話には鬼峠越えに関する部分が追加されていなくてはならないが,「もっと山奥に入って鬼峠越えて」の一言で片付けられている。ここでもまた鬼峠が過小評価されてしまっているのである。

『占冠村史』には「ニニウの花嫁」のエピソードが掲載されており,こちらには鬼峠越えのことがやや詳しく書かれているので,紹介しておこう。

「ニニウの花嫁」
 Mさんは十勝国新得の娘であった。大正8年に16歳になった時,嫁に行く様にすすめられた。14歳で結婚した者もあるのだから16歳にもなれば嫁に行かなければならないと思った。
 親の言う通りにまだ見たことのない占冠村ニニウ部落に嫁ぐことになって,9月12日の朝新得をたち,汽車で狩勝峠を越すときも車中の旅客に嫁入りする日の娘とは見えない髪で,着物の柄も今なら30歳になっても地味だと言われる位だったが,その頃の娘の嫁入りの着物としては普通だった。
 羽織をきてそのひもを胸にきちんと結び,帯をしめているところが少しよそ行きらしいいでたちで,金山駅に下車したとき,迎えに来ていた人々が,まずくれたのは3足の「わらじ」であった。
 下駄をぬいで1足の「わらじ」をはき,2足は自分の背に負うて歩き始めたが,今の馬鹿曲りを登るとき,駄馬道だったこの附近は原始林のトンネルだった。峠の絶頂も見晴らしのきかない樹海で,そこから降下する道を歩きに歩き続け峠の茶屋についたとき2匹の「やまべ」を煮たのを買ってもらった。腹がすいていたのでそのうまさがまたひとしおだった。「わらじ」をはき替えて占冠へ,またわらじをはき替えて中央についたとき,ここに夫となる人の――嫁いで行く家の知人の家があったが,もう日が暮れたのでここで泊まることになった。
   娘16歳,しかも嫁入りの途中なのでただ恥ずかしいばかりであったが,嫁に行く家はもうすぐそこで明日は下駄で行けると思っていると翌朝早くまた2足の「わらじ」を持たされた。
 出発して間もなく大きな川を渡るというのに橋がない。見ると渡船場で,舟にのるとき渡し守の妻がニニウというところはね,こうなんだと「なぞ」のようなことを言ったが16の年ではまださとされなかった。
 渡船を越すとまた山の中の昼も尚くらい道をのぼっても人家がない。生家に別れて嫁ぐ心はただ寂しいばかり。ことに16歳では泣けてくるのに,この峠はまたひどかった(鬼峠とはあとできいた)
 そのうち峠の頂上らしいところに来た時,小さな小屋があって,ここで休んで「わらじ」をはき替えたが,このとき,迎えの人々が「この峠は一人では歩けない」というので,なぜかと聞くと「出るんだ」と言って笑うだけなので,蛇ならおそろしいこともないと思った。
 さて降り始めると熊の糞があり,更に行くと熊の生々しい足あとがあったので一人で通れないわけがわかった。それにしても何故こんな山中に嫁に行くことになったのか,泣けてきたがもう帰ることも出来ないので「わたしには生まれつきここに嫁ぐ約束のもとにあったのだ」ともう一切を運命に任せる外ないとあきらめた。
 疲れて運命を「なるがままにまかせる」気持ちになった頃,やっと人家があったので一休みし,更に歩いてやっと目的の家の近くについた。 このとき,金山以来5足目のわらじをぬぎ,やっと白足袋をはくことになったが,汗で化粧どころではなかった。

奇しくもSさんとMさんは1年違いで他所の村から占冠に嫁入りしているが,2つのエピソードには共通するところが多く,当時の標準的な嫁入りの実態を表していると考えられる。

まずSさんもMさんも金山駅で下車している。当時,というか石勝線が開通するまでは,占冠の玄関口は根室本線金山駅だった。金山には明治32年10月に駅逓が設置され,翌年12月に官設鉄道の駅が開設されている。明治43年,金山・占冠間の道路が開通すると,金山は占冠の農林産物の集積地として賑わい,旅宿がたくさんできた。

根室本線金山駅 金山峠 峠下茶屋の跡

金山駅から占冠中央市街までは6里(24km)の峠越えで,金山峠は標高約600m,石狩と胆振の国境である。現在はなだらかな峠道であるが,かつては馬鹿曲りと言われた険路だった。

峠を越えると,SさんもMさんも茶屋に立ち寄っている。茶屋は古くから2軒あって,一軒は「ぢいさんばあさん茶屋」と呼ばれ,もう一軒は「峠の茶屋のおにばば」として有名だった。ある時,ほおずきを盗んだ子供がいて,その子供を叱ったところ,"おにばば!"といって逃げていったことから,その茶屋のおかみは「おにばば」と呼ばれるようになったという。また,ある事件で検事が占冠に来たとき,茶屋に立ち寄り「おにばばと茶に憩いて渋茶飲む」という句を残したことからさらに有名になった。昭和に入ると金山峠にも自動車が通るようになるが,冬季には除雪されないため馬そりが通った。毎日120頭の馬が往復し,ほとんどがこの茶屋を利用していたので大変繁盛した。しかし昭和30年頃から冬道の除雪が実施されるようになったため,茶屋は廃業してしまった。

ニニウにおける農業

鉄夫の家はいまだに唐箕などを使っている零細な稲作農家,一方,広の家は水田から大規模な酪農への転換に成功した農家として,対照的に描かれている。

鉄夫の家の畑。現在は耕作放棄されており,夏には野の花が咲き乱れる。

鬼峠の時代には農産物を出荷することもままならず,ニニウではほとんど自給のために畑を作っていたようなものである。昭和32年の1戸あたりの平均耕地面積は25.5反で,当時の上川支庁管内の平均である31反よりもかなり少ない。このようなことであるから生活の実態は半農半労で,林業労務により生活費を補っていたのである。昭和32年度のニニウ各戸の収入を見ると,平均して農業収入38%,農業外収入62%で,いかに冬山造材による収入が大きかったかがわかる。逆に言えば,ニニウのようなところでも農民が生活できたのは,王子の資本により労働する機会を与えられたからだった。

昭和59年の時点で鉄夫の家の場所で実際に水稲の作付けがされていたのかは不明であるが,ニニウは占冠の中では気候が温暖で,水田が多く作られたところだった。昭和37年におけるニニウの作付けは田56反,畑480反とされている。この後,昭和45年頃までは水田の面積が拡大されていったが,現在では占冠村内に水田は皆無である。

山神

ニニウの馬頭観世音堂

いわゆる神社仏閣とは別に,農村には地神や山神という土着的な信仰がある。神社のような広い境内はなく,道路の辻や丘の上などに自然石が立てられているような場合が多い。『富良野地方史』によると占冠には地神が10社,山神が5社あったとされている。造材は危険な仕事だけに山の神への信仰は厚く,12月12日の山の神の日には仕事を休み,まつりごとを欠かさなかった。

ドラマの中では「山の神様」が2度登場する。一つはチズが紀子の長靴を買いに夜道鬼峠を越えるシーン。チズは峠道で足を止め,祠にお参りをする。暗くてよくわからないが,山神様の祠だと思う。もう一つはチズと鉄夫が納屋で脱穀をしているところへ広が訪ねてくる場面で,広が
「ばっちゃん,せいでるな。こんな遅くまで稼いでると山の神様びっくりするぞ」
と感心して言う。

山神についても北海タイムスの「占冠の女(3)」および「占冠の女(8)」にエピソードが出ているので,脚本家がこれらをヒントにドラマに盛り込んだのだろう。

ニニウには地神も山神も伝えられていないが,馬頭観世音と水神があった。

ニニウと鉄道

ニニウ駅予定地(清風山信号場)

鈴木の爺さんが「ニニウ駅開設の呼びかけ」というポスターを廃屋の壁に貼っているシーンがある。ニニウには駅を設置するという計画で鉄道の建設が進められてきたが,昭和56年に石勝線が開通した時には,ニニウ駅予定地は信号場となり,旅客を扱う駅とはならなかった。それから3年たってもなお,鈴木の爺さんは通る人もめったにいない道端の廃屋にポスターを貼って駅の開設を呼びかけているのである。実際にそのような人がいたのか知らないが,駅ができないことを知ってニニウを出て行った人たちの無念さはどれほどのものがあっただろうか。

ニニウは山奥いえども鵡川の筋にあり,ここに鉄道が通るという話は開拓時代からあった。ニニウに入植した理由はだいたい次のようなものであった。
「鉄道がつけばニニウ駅が出来る。そうなると歌志内のようになる。ニニウはせまいが,せまい土地だけに今確保しておいた土地に値が出てくる。仕事もあるし農業をしても占冠では気候が一番よいから野菜も出来るのでこれも売れる」(『占冠村史』)

ニニウは明治以来,昭和30年代まで戸数20〜30戸で推移してきたが,史上最も賑わいを見せたのは石勝線の工事が行われていた頃だった。昭和41年に石勝線の工事が始まると,ニニウにも電気が通じるようになった。鉄道建設公団の占冠建設所がニニウにできて工事関係者が多数入った。冬も道路が除雪されるようになり,保存食に頼った暮らしから解放された。学校も子供たちで賑わったが,昭和49年に鬼峠トンネルが竣工すると,同年度をもって新入小学校,中学校が閉校となった。昭和45年に477人いた人口が,昭和50年度末には20人と激減している。

「占冠村民号」記念乗車
(「占冠村開基80年記念誌」より)

占冠には「汽車汽車と思い暮して五十年」という辞世の句を残して死んでいった人がいたというが,実際に鉄道が来たのは入植80年後のことである。開通一番列車には,ついに鉄道の開通を見ることなく亡くなった身内の遺影を持った人が大勢乗り込んだ。

ドラマは鉄道が開通して3年後に放送されている。広は言う。
「まったく鉄道ができてから村は変わったよな。出面とりの仕事は増えたけど,その分なんで百姓やっているのかわかんなくなるときあるもんな」
「出面とり」とはすなわちパート,アルバイトのことで,トマムリゾートでの仕事をさしているのだろう。皮肉なことに鉄道は村人を生まれ育った土地から連れ去る役割を果たすことになったのである。

浪花節語りの夫婦

鉄夫の母は造材の飯場に来ていた浪花節語りの男と駆け落ちするが,これも「占冠の女」をヒントにしたものであろう。

「Sさんの夫も,昭和11年まで,毎年冬山造材の仕事をしている。街道筋にあたる(Sさんの)家には,見知らぬ旅人が迷い込んでくる。不安を隠してSさんは,夜更けに戸をたたき雪まみれになってころがり込んで来る人を休ませた。そんな何人もの人の中で,忘れられなかったのは,浪花節語りの夫婦もの。子供にだけは綿入れのちゃんちゃんこは着せていたものの二人は,薄いひとえの着物一枚切り。造材山の飯場にはこうした旅芸人が,一夜の宴を張って流れ歩いていた。(中略)二人は多くを語らなかったが,次の朝,吹雪の中を子供を背負って出て行く,派手なひとえ着物の母親の後ろ姿が目に焼きついている」(「占冠の女(3)」北海タイムス1984.6.8)

佐々木逸郎氏

北海道を代表する詩人,放送作家として知られる佐々木逸郎氏(1927〜1992)は,このドラマに「紀子の父」役で出演している。その時の思い出をつづった随筆「鬼峠」が『ぽぷるす随筆第7集』(朝日カルチャーセンターぽぷるす随筆編集委員会,1985.3)に収められており,ドラマに出演することになった経緯や,チズ役の原泉さんとの小林多喜二にまつわる交流について書かれている。

その中で,チズのモデルとなったSさんがニニウの人であり,
「かつては36戸あったニニウの農家も,いまはSさんの家をいれてわずか2戸だけである」
とあるが,これは誤りで,Sさんは前述のとおりニニウの人ではなく,当時既にニニウの農家は1戸だけになっていたのである。最後の農家Iさんのことは北海タイムス「占冠の女(8)」や,『しむかっぷでむかしあったこと』(占冠村,2003.3)に掲載されているが,離農の時期は不明である。

田中義剛氏

STV恒例のイベント「STVまる見え博覧会2001」に田中義剛がゲスト出演した際,ドラマ「鬼峠」のいくつかの場面が1分間ほど放送された。

(牛の出産シーン)

田中「これ,牛の出産シーン」
和久井アナ「これは義剛さんしかできない」
田中「これだけのためにオレ選ばれたみたいなんですよ。これができる俳優はいないかったらオレがいるってことで。布施博君は牛が苦手でね。このあとこの人吐きました。かわいいですね」
和久井アナ「いやぁ20年前ですね。すごい」
田中「アイドル時代ですよ。もういいよ,長いよ」

(広の牧場で鉄夫が広に殴りかかるシーン)

和久井アナ「けっこうセリフがありましてね,大変だったですよ。核心の…」
田中「青春ですね。飛び出せ青春」
広の声「どうせお前なんか,おふくろと一緒で色気づいてこの村出て行くのが落ちなんだべ」
田中「布施博は不良なんですよこれ。このあとグランドホテルでですね飲み食いして,10何万のツケをSTVに払わせて,悪いやつですこれ」