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ニニウと私 2007年

●2007.1 年賀状にて

前年の秋頃からにわかに動き出していた鬼峠越えの話だが,正月に日月社の山本さんから届いた年賀状によって,自分の中での鬼峠越えのイメージがぐっと膨らんだ。村の人のお話しを聞ければと思っていたのが,自分で話すことになってしまったのは誤算だったが,それまで夢に描いていたことが実現に向かって一気に動き出した。

鬼峠越えのイベントは「鬼峠フォーラム」と名が付き,村の社会教育事業にも位置づけられた。村内には新聞折り込みチラシで周知が図られ,道新の富良野地方版でもホームページの画像とともに大きく告知された

詳しい経緯は,鬼峠フォーラム開催報告の「1. フォーラム開催まで」に書いた。

●2007.3.15 ニニウの施設売却へ

奇しくもフォーラム開催の直前のタイミングだったが,この日の道新富良野地方版に,2004年度から休業中のニニウサイクリングターミナルなどニニウ地区の3施設とその敷地計1.6ヘクタールが,村から札幌の不動産会社に売却される意向である旨の記事が掲載された。前年の5月に同社から打診があり,村は2月に同社に売却の意向を伝え,協議を続けているという。

●2007.3.17-18 鬼峠フォーラム開催

年度末の慌ただしさの中,フォーラムの当日を迎えた。結局,フォーラムには50名近くが参加した。私のホームページを通じて,道外から4名,道内から8名の参加を得たが,占冠村の人たちにとって,トマムではなく鬼峠やニニウを目当てに,わざわざ飛行機でやっている人がいたというのは相当な衝撃をもたらしたようである。

交流会には昔ニニウに住んでいた方々,村の重鎮の方々,トマム関係の方々,純粋な関心を持って参加された富良野沿線の方々など,様々な立場の方が参加し,これまた素晴らしい郷土の食事を前に,交流を深めることができた。

大学の卒業設計でニニウ博物館に取り組んでいたとき,「君のやっていることは絶対失敗する」と言った友人がいたが,仮にニニウ博物館が実現しなくとも,あのとき取り組んでいたことは間違ってはいなかったのだと確信できたひとときだった。

翌日は25名が鬼峠越えを完遂した。娘時代に実際に歩いて鬼峠を越えていたという奥様方が,急遽前夜になって参加を決め,一緒に鬼峠を越えることができたのは感動的だった。

鬼峠交流の夕べ 鬼峠(2代目)越え

●2007.4.14 赤岩新道を訪ねる

2001年の着工以来,巨費を投じて建設された道道夕張新得線赤岩トンネル,赤岩橋及び村道日勝赤岩線改め道道占冠穂別線が4月9日開通した。開通後初めての週末となる4月14日,えのページのえさんが新道を走行するツアーを企画され,札幌市よりえさん,zwiebelさん,天空開発さん,前野さん,john_deaconさん,ごんすけさんと私の7名が参加して,北海道の道路交通史に残るであろう歴史的な道路の開通後間もない姿を調査した。詳しいことはレポートに書いた。

帰途,ごんすけさんの車でニニウに寄り,季節はずれの雪化粧をしたニニウの風景を見ることができた。

道の駅では占冠村観光協会のKさんに再会し,事務室でしばらくお話を伺うことができた。

新旧の赤岩橋 ドラマの主人公・鉄夫の家は解体された

●2007年5月13日 フォーラム開催報告完了

自分で講演をやっておきながら,そのフォーラムの報告を自分のホームページに掲載するというのは,あまりにも手前みそなので若干躊躇したが,やはり記録を作っておくことは大切だと思い,ホームページに報告書を掲載することにした。特に急ぐ理由もなかったので,熟成期間をとって4月22日から順次掲載を開始し,5月13日に全ページの掲載を終えた。

●2007.5.23 占冠出身H氏と16年ぶりの再会

H氏は占冠村の出身で,中学時代は私と同じく軟式テニス部だった。私が占冠に親しみを感じていた一つの理由は,占冠中のテニス部が毎年はるばる上富良野まで練習試合に来てくれたからだった。当時話をしたことがあったわけではないが,H氏と私は共に前衛で,同じ型のラケットを持っており,戦績も拮抗していた(というか,お互い強力な後衛同士の攻め合いでほとんど勝負が決まっていた)ことから,特に印象の残る一人だった。

高校は別だったが,大学は同じH大に入った。ちなみに同期として証言しておくと,その年占冠出身者が3名H大に現役合格して新聞でも話題になったのであるが,そのうち一人は,例年T大・K大に多数の合格者を出す旭川H高に主席入学し,在学中その成績を維持しながらも甘んじてH大に入った人である。またある一人は,地元F高にやはり主席入学し,1日3便の村営バスで通学しながら同高からは久々のH大合格者となったのである。そんなことからも,私は占冠というのはすごい村だという印象を持っていた。

大学の卒業設計でニニウに取り組んだとき,つてを頼ってH氏にコンタクトを試みるも果たせなかった。それが,職場の30歳研修で偶然にも彼と出会い,実は彼が同じビルのすぐ上の階でデスクワークをしていたことが判明したのである。

研修2日目,早速夕食を共にし,中学時代を懐かしく語り合った。富良野沿線のテニス部では,富良野東中(とんちゅうと称していた)が圧倒的に強かったが,お互い印象に残っているのは,個性派の下金山中や落合中で,彼の口から出てきた○○・××組,△△・□□組といったペアの名前には懐かしさを感じてどうにもならなかったが,いずれも現在は廃校になってしまったのは寂しい限りである。

●2007.5.27 初代鬼峠の地図を入手する

道内のことで調べものをするとき,やはり道立図書館の資料の豊富さは圧倒的であり,自宅から電車1本で行けるので,札幌に転勤になってからはよく利用している。この日は旭川の旅行記を作るにあたって陸軍大演習やアサヒビルのことを調べるために訪れたのだが,たまたま旧版の地形図を閲覧できることを知り,図らずも鬼峠の地形図を入手することができた。

ニニウ地区が含まれている1/50000地形図「日高」(昭和25年版までは「右左府」)は,初版が大正8年の測図で同10年に発行されている。ニニウの入植から10年ほどだった頃だが,この時点で既に「鬼峠」の名前が地図に記載されているのは注目に値する。鬼峠は昭和4年に北側に大きく迂回するルートに改良されているが,地形図のほうは旧ルートのまま昭和25年まで版を改めずに発行されており,昭和37年に同33年改測版が発行された際に,その時点では既に廃道になっていたはずの2代目の鬼峠が初めて掲載されていた。

鬼峠の新・旧ルートは二次資料を元にしてホームページに地図を載せていたが,旧ルートはほぼ正確だったものの,新ルートは峠よりニニウ側でやや線形が異なっていた。大正8年測量の地形図は,現在の地形図と等高線が相当異なっているが,それでも,ただ山の中を歩いて測量するしかなかった時代によくここまで精細な地図を作れたものだと改めて感心した。

●2007.6.15 村教委M主査より電話

この日,占冠村教育委員会のM主査から職場に電話がかかってきた。用件は,ニニウ関係の資料を求めて訪ねて人がいたそうで,主査のパソコンに3月のフォーラムのときのパワーポイントのデータが残っていたので渡してよいかとの確認だった。それは快諾した。

このころ,私は占冠村との間に距離を感じるようになっていた。というのは,前月にフォーラムの開催報告をホームページに掲載し,村の関係者にもメールでお知らせしたのだが,反応が全くなかったからである。別に反応を期待していたわけではないが,24人にメールを送れば,1人か2人は返事をくれてもよいと思った。何か言いたいことがあるならはっきり指摘してくれればよいのである。無言の抵抗というのがいちばん辛い。

フォーラムの交流会では,参加者みんなに山菜市の案内を送ろうという話も出ていたのだが,結局何の音沙汰もなく当日が過ぎてしまった。やはり,あのときは自分が浮かれていただけだったのだろうかとひどく落ち込んだ。

そんなタイミングでの主査からの電話だったので,その心配を率直に主査に尋ねてみたところ,そんなことはないだろうとのこと。とりあえず少し安心した。また,10日に開催された山菜市にはフォーラムの参加者も何人か来て,双民館に泊まった方もいたとのこと。知らないところで,そういう交流が生まれてきているだとしたら,フォーラムの意義はあったのかなと思った。

●2007.7.6 ニニウの施設の売却が決定

この日の村議会でニニウサイクリングターミナルと林間学校,旧教員住宅の建物と敷地を札幌の不動産業者に売却する条例改正案が可決された。土地は1.6ヘクタールで67万8千円で売却,建物は無償譲渡するという。

●2007.9.7 ニニウ再開発「4年後開業目指す」の記事

この日の北海道新聞富良野地方版に,ニニウサイクリングターミナルなどを村から取得した不動産業者の話が掲載された。サイクリングターミナルを露天風呂付きの宿泊施設に改修し,隣接地には野外ステージを新設,家族連れを対象にした自然体験型の施設として,高速道路が全通する4年後の開業を目指しているという。事業費は最大で3億円程度を見込んでいるとのこと。

●2007.10.11 道新富良野支局から電話取材を受ける

北海道新聞の富良野地方版で道東道開通の特集を組むということで,富良野支局の新聞記者K氏から電話取材を受けた。私がとやかく言う問題ではなく,住んでいない人間の無責任な発言が新聞に掲載されても困ると思ったが,いろいろ聞いてくれたので30分ほど話をした。

話したことの主旨は,そもそも高速道路の必要性には疑問を感じるが,道央と道東を結ぶ高速道路を作ることになった以上は,ニニウに高速道路が通るのは宿命だと考えられること,ニニウの魅力の一つは自然であり,高速道路の建設による影響が懸念されるが,それによってニニウの魅力がすべて失われるわけではないこと,などであった。

このときの新聞記者K氏との出会いが,翌年の鬼峠ミーティングにつながることになった。

●2007.10.21 道東自動車道トマムIC〜十勝清水IC開通

かつて車より熊のほうが多いと揶揄され,道民にすら無駄な高速道路だと思われていた道東自動車道だが,難所の日勝峠を回避するルートとして,このトマム〜十勝清水間は非常な重要な区間であり,粛々と工事が進められてきた。

道東道の新区間とセットで短縮効果を発揮する日勝赤岩線が認知されていないこともあって,トマム延伸は,その重要性の割にはあまり大きなニュースにはならなかった。ただ,実際開通してみると,車の流れが日勝峠から占冠経由にかなりシフトしたようで,11月2日の道新によると計画交通量の1.7倍の車が高速道路を利用し,村のレストランの利用客も従来の5割増になったという。

通行した人の話では,だれもが景色を絶賛しており,特に串内付近の牧場の風景は素晴らしいとのことであった。かつて日本新八景,日本三大車窓に数えられた狩勝峠,そして日勝峠においても,脊梁山脈を越えたときの十勝平野の眺望が,北海道を訪れる観光客の第一印象を決定づけていると言われるが,高速道路にもその点は引き継がれたようなので,とりあえず安心した。

●2007.11.8 ほっかいどう学出前講座「地域資源を活用したまちづくりの推進」開催

この日,占冠村において,北海道教育委員会と財団法人北海道生涯学習協会の主催によるほっかいどう学出前講座「地域資源を活用したまちづくりの推進」が開かれた。

帯広の北の屋台の創出者,坂本和昭さんの基調講演の後,事例発表として山本さんから「山菜市」についての報告があり,ワークショップとして森のかりうど高橋勝美さんが「おいしく食べるためだけ」こだわって獲った占冠の鹿肉を試食するという内容だった。

これはぜひとも参加したいと思ったが,どうしても都合がつなかったので,その旨メールで連絡した。すると,山本さんから思いもかけない次のような言葉が返ってきた。

「鬼峠フォーラムですが,ぜひ今年(?)もやりたいと思っています。時期や内容は全く未定ですが,小さな物でも継続したいなとみんなで話しています。また,案などあれば聞かせてください。」

鬼峠フォーラムは1回切りのイベントだと思い込んでいたが,言われてみれば継続することこそが大事なのである。またやりたいという動きがあることを嬉しく思った反面,これはまたやっかいなことになったと,この時点では思った。


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