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ニニウと私 2011年

このところ,物事の移り変わりが激しく,1年前のことでも思い出すのが難しいことがある。それだけにそのときどんなことを考えていたのか,ごく私的なことでも書き留めておきたいと思って毎年このページを作っている。(2012年9月17日記す)

●1月 農に携わる知人を訪ねる

1月というのは,怒涛の年度末を前にして,少しの間立ち止まって物事を考えることのできる思索の月であるように思う。毎年この時期に,友人,知人を訪ねて歩いている。

今年は農業あるいは農的暮らしをしている3人を訪ねた。1月9日は上富良野で家業の水田農家を継いでいるO君を訪ねた。幼稚園の年少組からの仲であるが,会うのは高校卒業以来16年ぶり。1月15日には士別市で肉牛を飼っているM君,翌16日は昨年新居お披露目会にも参加させていただいた富良野市のイマイカツミさんを訪ね,昨今の農業に関する教えを乞うた。

もともと同じ職場にいたM君夫妻は,同期ではいち早く新居を構え,「ようやく地に足の着いた生活ができるようなった」という奥様の言葉が印象的だった。最近,身の回りでも月給暮らしをやめて,土を耕す生活を始める人が増えている。それは正しい生き方だと思う。しかし,そのような生き方は私にとってはあくまでも憧れとしてとどめておかなければならない。逆にいまの立場だからできることもあるはずで,その中で正しい生き方を探していきたいと思う。

●2011年2月13日 休刊日おやじ飲み会

昨年と同様,2月の新聞休刊日前日のこの日,「休刊日おやじ飲み会」と銘打つ,鬼峠フォーラムの事前打ち合わせが行われた。ここからの経緯は,鬼峠フォーラム2011開催報告に詳しく書いた。

鬼峠フォーラムもかれこれ5回目になる。今年は4月に村議選,10月に高速道路の開通が控えており,おそらく今年の3月と来年の3月では村の状況がかなり変わっている。そういう意味でも,今回のフォーラムは一つの節目になると思われた。

●2011年3月11日 東日本大震災,そして3月12日 鬼峠フォーラム

鬼峠フォーラムは,前日に発生した東日本大震災の被害の状況がまだ断片的にしかわからない中,午前中の峠越えを屋内でのビデオ鑑賞などに変更,午後からは予定どおりのプログラムで開催された。この時点の判断としてはそうするしかなかったと思うが,後になって心に引っかかるものを感じたのは私だけではないだろう。

過去のこのコーナーでも再三書いているように,ニニウは小説『泥流地帯』で,泥流の直撃を受けた三重団体のモデルとなっていると思われるが,大震災の翌日に鬼峠フォーラムが開催されたことで,ニニウと災害,復興ということが,私の中でより強く結び付けられることになった。

●2011年4月1日 ブログ「原野日誌」開設

ブログというツールが登場して10年近くになるが,ブログに対しては,個人の日常を見せびらかすのはいかがなものかとか,ホームページと違って体系的な情報にならない,仕事との両立が難しいのでは,などと否定的に考えていた。

しかし,3年前に旭川に引っ越して小さな庭が与えられ,そこに種を蒔き花を咲かせる喜びを誰かにも伝えたいと思うようになった。ブログを始めたきっかけは,震災のこと,ある人に「あなたにブログは似合わない」と言われたことに対する挑戦などいくつかあったが,直接的なきっかけは祖父が余命数か月と宣告されたことだった。祖父が生きている間,もし時間があるならホームページを作るのではなく,祖父の話を聞きたいと思った。だから,平日でもちょっとの時間で更新できるブログを持つことにしたのである。

ブログの名前に深い意味はないが,「原野の詩人」と呼ばれた更科源蔵へのオマージュも込めて原野日誌とした。原野とは,いかにも北海道らしく好きな言葉である。

●2011年5月3日〜4日 東北にて

ゴールデンウィークに両親が東北に行くと言い出した。震災があって初めて知ったことであるが,新婚旅行で三陸海岸を巡ったのだという。フェリーで八戸に上陸し,最初の夜は宮古に宿をとり,あとどこかでもう1泊して仙台まで行ったそうだ。私も宮古には学生の時以来何度となく訪ね,縁もゆかりもないのになぜそこまで惹かれるのか不思議に思っていたが,やはり運命だったのかもしれない。

両親の慣れぬ汽車旅を心配に思ったこともあるが,私としても家族で東北を旅行することは子供のときからの夢だったので,急きょ切符と宿を手配して2日遅れで北海道を発ち,5月3日盛岡で両親と合流した。

東日本大震災は4月28日に四十九日を迎えていたが,まだまだ行方不明者が多く,精神的な整理もついていないように思われた。そんな中で盛岡駅前で行われていた復興チャリティーイベントのさんさ踊りは,震災前と変わることなくあまりにも美しく,見ていて涙を禁じ得ないものだった。

●2011年5月3日夜 仙台の大叔母を訪ねる

その日の夕方,仙台の大叔母を訪ねた。3月11日,津波が押し寄せる中継映像を見たとき,私はどこかで見た光景だと思ったが,それは子供のころから聞かされていた大正15年の十勝岳爆発による泥流であった。91歳の大叔母はその泥流を尻目に逃げて助かった人である。

大叔母もやはり,今回の津波をテレビで見て大正泥流を思い出したと言った。仙台のマンションは地震で電気や水道が止まり,復旧までの数日は避難所で過ごしたという。食べるのを忘れるほど本が好きという大叔母であるから,避難所では本を読めたのかと尋ねると,避難所はそんなのんきなものではありませんよと言われた。どうやってもまわりの人と肌が触れてしまうほど場所は狭いし,子供の泣き声で眠ることもできず,本当につらいものだったそうだ。

両親は八戸に宿をとっていたので先に仙台を引き上げ,私は大叔母の手料理をごちそうになった。高齢のため近くのスーパーで出来合いの惣菜を買っておかずにしていた大叔母であるが,震災以来十分な惣菜が手に入らなくなり,自分で食事を作らざるを得なくなったのだという。そして夜更けまで大叔母の話を聞いた。大正15年の十勝岳爆発は,たしかに大叔母の人生にとって大きな影響を与えるものだったようである。しかし,その後の80余年の苦労を聞いたとき,被災はたしかにつらい体験だったに違いないが,長い人生の中で見れば一瞬の出来事であるように感じられた。

●2011年5月16日 緊急シンポジウム「子どもたちの未来と食を守るネットワーク〜北海道の大地にたねをまこう〜」

荒川義人氏(天使大学教授),湯浅優子氏(農業・北海道スローフード・フレンズ リーダー)を開催呼びかけ人の代表とする緊急シンポジウム「子どもたちの未来と食を守るネットワーク〜北海道の大地にたねをまこう〜」が,札幌市のかでる2・7で開催された。事前に占冠の山本さんから案内をいただき,私も呼びかけ人として名前を連ねさせていただいた。呼びかけ人の中には,占冠コミュニティの人たちの名前もたくさん見つけることができた。

シンポジウムでは草の根レベルで被災地の支援活動をしている人たちから,現状の報告があり,非常に参考になるものだった。このころから仕事の関係で,岩手県の被災地と間接的にではあるが関わりを持つことになり,復興について考えを求められることがあった。その際,このシンポジウムで聞いた話にヒントを得ることが多くあった。

●2011年5月27日 第1ニニウトンネル内で特急列車脱線炎上

この日の夜遅く,札幌行きの特急スーパーおおぞら14号が,第1ニニウトンネル内で脱線炎上した。金曜の最終列車だったため企業官庁の単身赴任者が多数乗り合わせていたこともあり,大きく報道された。ニニウという場所がこれほど大きく報道されたのはいまだかつてなかったことだろう。乗客の勇断により死者が出なかったのは幸いだったが,一歩間違えば大惨事となるところだった。

鬼峠トンネル前からの中継 炭坑事故を思い出させる乗客の煤けた顔の映像は印象に残るものだった

●2011年6月5日 東大演習林「2011年度公開セミナー」

3月の鬼峠フォーラムに富良野市の東大演習林の職員の方が参加していた縁で,ご案内をいただき参加することができた。ここのところ,森林関係の話を聞く機会に恵まれているが,この日のセミナーはとりわけ勉強になるものだった。非常に恵まれた森林資源を背景とした採算度外視の施業法は,一般にはまったく普及していないように思われたが,持続可能な森林経営という面では理想的なモデルだと思った。

昨年の堅雪フットパスで十勝岳山麓の自衛隊の演習場に立ち入った時にも感じたが,一般の人が普段立ち入らないこうした森にこそ,素晴らしい自然が残されている。あまり広く公開するもの問題だが,一般公開が年に1度だけというのももったいないと思った。特に富良野近郊で活躍している自然ガイドの人たちに,もっと森のことを勉強できる機会が与えられるとよいと思った。

生産のための森 感動的な湧水地

●2011年6月17日 大叔父の死去

仙台の大叔母の妹(私から見れば2人とも大叔母であるが)が,家から歩いて3分のところに住んでいる。その主人が死んだ。

いつもにこにことしている優しい大叔父であったが,あらたまって話を聞くということはなかった。ところが,4月30日に訪ねたとき,問わず語りのように若いころからのことを話してくれた。戦中から戦後しばらくにかけて日高のクローム鉱山で事務方として働いていたという。ニニウにも近い,八田や岩美の鉱山も知っているようだった。結婚して最初に努めたのは占冠だったという。

近くに住んでいる縁で,葬儀には枕経から繰り上げ法要まで付き合ったが,これでまた一つの歴史が消えたと思うと,涙を禁じ得なかった。

●2011年6月20日 高速道路再有料化

昨年6月28日に始まった高速道路無料化社会実験であるが,震災の復旧・復興費用をまかなうために6月20日から再び有料化された。昨夏,占冠の道の駅は無料化実験によって立ち寄り客が激増し,今年もそれに備えていたわけであるが,突然の無料化実験凍結によって見込みが狂うことになった。

それでもマイカー客が増える連休などには,昨年以上の賑わいを見せた。無料化実験終了後,最初の連休となった7月16日〜18日の活況を伝える新聞記事が印象的だったので,引用しておく。

「高速道路再有料化後初の大型連休となった16〜18日の3連休は,あいにく雨続きだったが,道の駅『自然体感しむかっぷ』は前年を上回る利用者でにぎわった。
開館時間を前後1時間延長し,午前8時から午後7時まで開館。有料化後は微減傾向だった利用者が前年対比で期間中2800人増え,3日間に計1万7千人が利用した。道の駅内のアンテナショップでは朝取り農家直送の野菜が,飛ぶように売れていた。2か所あるトイレには終日列が続いた。
ごみの持ち込みを禁止しているが,トイレや物陰などへのゴミ捨ても激増。普段は3日間で大型ごみ袋1つ分程度が回収されるが,この3連休は1日で3つも回収された。(以下略)」

●2011年6月24日 街づくりDEギャザリング

ラジオふらのでは,2011年度の1年限定で「ふらびズム」という月刊のフリーペーパーを発行し,それと連動して毎月○○ギャザリングというイベントが開催された。この日は,フラノ・マルシェで「街づくりDEギャザリング〜美瑛町から占冠村まで6市町村最年少議員わが町を語る!〜」が開催された。この4月に統一地方選挙あり,パネラーの中には当選したばかりの議員も何人かいた。占冠の山本議員もその1人である。

あまりつっこんだ話はなかったが,それぞれの町の若手議員が考えていることは何となく理解された。かつて,市町村議には古くからその地に住んでいなければ立候補できない雰囲気があったが,最近の議員名簿を見ると,ペンション経営者など移住からそれほど年数を経ずに議員になっている例がかなりある。そういう人たちが多数派を形成している市町村さえある。これは新しいまちづくりという点では期待が持てることではあるが,町を担うべき人材がその町の中で育っていないという見方をすれば,非常に厳しい現実である。

●2011年7月 スローフード・フレンズ北海道に入会

この数年,スローフード関連のイベントにいろいろ参加させてもらっていた。スローフードの思想を私はそれほど身近に感じていなかったが,昨年の12月に札幌で映画「テッラ・マードレ」を見たあたりから,スローフードが単なる食のこだわりではなしに,地域の問題であるということが理解されてきた。この5月の「子どもたちの未来と食を守るネットワーク」への参加などを通じて,誰に誘われたわけでもないが,スローフード・フレンズに入会せざるを得ないような気持ちになってきた。そして,事務局の山本さんに入会したい意向をメールでお伝えした。入会してみると,鬼峠フォーラムでお世話になっている占冠コミュニティの人たちの多くが既に会員になっており,自分はかなり遅れていたのだと気付いた。

●2011年7月20日 旭川ミーティング

ちょうど7月20日に旭川ミーティングが行われるとのことで,さっそく参加した。旭川でのミーティングは久しぶりとのことだったが,新得から代表の湯浅優子さんをお迎えし,旭川近郊のメンバー10名弱が集まってミーティングが行われた。湯浅さんのお話を初めて聞いたのは,2002年3月20日に札幌で開催された北海道景観シンポジウムだった。2008年の近自然ワークショップで個人的にお会いしてからは,たびたびお声をかけていただいていたのだが,正直言うと湯浅さんの思想をあまり理解していなかったように思う。しかし,この日の旭川ミーティングに参加して,湯浅さんの思想というものがようやく理解されてきた。その意味でも,やはりスローフード・フレンズに入会して良かったと思った。

●2011年7月22日 「子どもたちの未来と食を守るネットワーク〜北海道の大地にたねをまこう〜」第2回意見交換会

第2回の意見交換会は札幌エルプラザで開催された。やはり前線で活動している市民団体の人たちの情報は早い。7月27日の衆議院厚生労働委員会での児玉教授の発表は全国的な話題を呼んだが,子どもたちの未来と食を守るネットワークのメーリングリストでいち早く動画の情報を得ることができた。のちに職場からも上司を通じて動画を見るようにとの情報提供があったが,それはずいぶん日数がたってからのことであった。

●2011年8月15日 祖父死去

母方の祖父が死んだ。第1回の鬼峠フォーラムのとき,案内したわけでもないのに,新聞記事を見て来てくれた祖父である。参加者は50人くらいあったが,こんなに参加者が多いとは思わなかったと言って,お菓子1箱をこそっと置いていった祖父の姿が忘れられない。あのとき,懇親会で祖父の話を聞いてくれた方々に,この場を借りてお礼を申し上げたい。

父方の祖父とは対照的に,母方の祖父は語り,書く人であった。1月に病気がわかって以来,月に1度は祖父を訪ねて話を聞いた。私は聞くべき話はかなり聞いたような気がする。伝えるべきことも,最後に会った7月16日に伝えることができた。それを祖父は大変喜んでいたと,死んだあとに従妹から聞いた。

●2011年9月18日 しむかっぷアートキャンプ2011

9月1日から20日まで,初めての試みである「しむかっぷアートキャンプ2011」が開催された。占冠村では高速道路の開通を見据えて,今年に入ってから様々なイベントを開催している。アートキャンプは,旧占冠小学校に開設されたしもかぷ工房の縁で,アーティストの大岩オスカール氏,よしだぎょうこ氏ほか金沢美術工芸大学の学生さんたちを招いて開催された。

会場は双民館,道の駅,占冠地域交流館(旧占冠小),トマムリゾートと村内に点在しており,村内の複数のスポットの回遊を促すしかけとして画期的な取り組みだと思った。この日は列車とバスで訪れたのだが,各スポットは列車とバスを使って比較的容易に回遊することができた。占冠村は交通が不便だと思われがちだが,実は村内の公共交通機関が非常に充実した村だということに気が付いた。

しかし残念ながらアートキャンプ目当てに占冠を訪れる人は少ないように見えた。今後,3年計画でアートキャンプを開催するとのことだが,画期的な取り組みなだけに,何とかもっと盛り上げる方法はないものかと思った。

この連休(9/17〜9/19)は「秋のしむかっぷマルシェ」も開催され,道の駅は多くの立ち寄り客で賑わっていた。果たしてこれが最後の賑わいになるであろうか。

 

●2011年10月9日 「北の国から」放送30周年

この日,ドラマ「北の国から」の第1回が放送されてから,ちょうど30年を迎えた。この記念すべき日に,「黒板五郎の流儀」バスツアーに参加し,夜は新富良野プリンスホテルで倉本聰先生の講演会を聞いた。詳しいことは小さな旅行記「北の国から」と石勝線30周年に書いた。30年前に鉄道の幹線から外された富良野を舞台にして生まれた「北の国から」。一方で,幹線が通った占冠を舞台にしたドラマ「鬼峠」。2つのドラマは知名度こそ違うものの,対をなすものだということに改めて気が付いた。

●2011年10月10日 石勝線開業30周年記念「石勝線信号場停車&夕張・鉄道遺産の旅」

占冠村を通る石勝線が開通したのは30年前の10月1日のことである。この日は30周年記念の「石勝線信号場停車&夕張・鉄道遺産の旅」に参加した。詳しくは小さな旅行記「北の国から」と石勝線30周年に書いた。窓の開く車両で石勝線を走り,廃止された鬼峠信号場の跡をはっきり確認できたのは貴重なことだった。

占冠村としては,鉄道の開通は開村以来70余年の悲願であったが,その後の30年を振り返るとき,鉄道の開通が占冠村にとって良かったのかどうかはわからない。建設計画の決定,着工,開通と石勝線建設の節目ごとに村を挙げての盛大な祝賀会が開催されたにもかかわらず,この30周年に際しては村で何の動きもなかった。

●2011年10月29日 道東自動車道 夕張〜占冠間開通

道東自動車道の山越え区間で最後に残っていた夕張〜占冠間が開通し,道央と十勝方面が高速道路で結ばれた。

ニニウで高速道路の杭を発見したのが,1999年の11月23日だった。その後,工事は極めて順調に進み,約12年で開通に至った。ニニウに高速道路が通るという事実を多くの人に知ってもらおうとホームページを立ち上げたのが1999年11月29日。その時は,占冠の誰ともまだつながっていなかったが,2002年7月にニニウに住むGさんからメールをいただいたのをはじめとして,様々なつながりが生まれ,2007年3月には鬼峠フォーラムを開催するに至った。「ニニウへ急げ」というホームページが果たした役割はたしかにあったと思う。

12年前に最初に杭を発見した場所で,開通の瞬間を見たいと思い,ニニウに向かった。開通は15時ちょうど。15時5分,上り車線の最初の車が通過,15時10分には下り線にも車がやってきた。車上の人にも独特の緊張感が見えた。ほどなく高速道路は渋滞になった。ニニウで高速道路が渋滞するというこの光景を過去に誰が想像しただろう。

高速道路の向こうには,小学校やサイクリングターミナルが見えたが,ニニウの集落が以前より小さく感じた。高速道路ができたからといって,ニニウの魅力がなくなるわけではないが,ニニウにとっての転機であることに間違いはない。

なお,「ニニウへ急げ」というタイトルは,高速道路の開通をもって意味をなさなくなったので,翌10月30日に「ニニウのこれから」と改題した。

占冠〜夕張間の開通にさきがけ,9月7日に占冠パーキングエリアがオープンし,上り線には村の物産を販売する仮設テントが設置された
秋色のニニウ

●2011年11月4日〜5日 近自然セミナー&ワークショップ2011「水を巡る旅〜スローシティ」

占冠で4回目となる近自然セミナー&ワークショップが開催された。旭川川村カ子ト記念館館長の川村兼一氏,作家の島村菜津氏というビッグゲストを迎えて,参加者約100名という大きなイベントになった。詳しいことは小さな旅行記鵡川の水を巡る旅に書いた。


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