北海観光節旅行記小さな旅行記 2005.6.26

SHINTOKU空想の森映画祭の旅 その4

さて,「タイマグラばあちゃん」の上映時間が迫ってきたので校舎の中に入る。

 

内部は現役当時ほぼそのままだった。「とうとう2人になったね」という板書には涙を誘われる。

14時,4日間にわたる映画祭の最終プログラムとして「タイマグラばあちゃん」の上映が始まった。立ち見が出るほどの大入りである。冒頭主催者側より上映の経緯について説明があった。共同学舎の職員が,映画に出演している山代陽子さんと大学の同窓で,以前タイマグラを訪れたことがあったのだという。


私は生まれたときから家業の跡継ぎをする運命にあるのだと,子供の頃から思い込んでいた。友達はバスの運転手になりたいだとか野球の選手になりたいとか好き勝手な夢を持っていたようだが,私は逆にそうした夢を持てるということが信じられなかった。小学校の卒業文集に将来の夢=家の跡継ぎと書いて,担任の先生にそんな夢のないことではだめだと怒られたが,実際それしか書きようがなかったのだ。

ところが中学2年のとき,ちょうど祖母が亡くなった頃,親から家の跡を継がせる気がないことを聞かされた。私は急に将来が見えなくなってしまい,わけのわからないうちに町を追い出されるようにして旭川の高校に進学し,だれが敷いたのかわからないレールの上を走り続けてきた。

そんな中で唯一の心のよりどころとなったのが畑である。幼年の頃から祖母の手伝いで畑仕事をしてきたが,祖母が体を悪くした中学の頃からは一人で畑を守ってきた。大学に入っても最初の1年は月に一度実家に帰って畑をやったが,草取りは追いつかないし,月に1回の仕事では私の体力も追いつかなくなって畑を手放した。何年もかかって堆肥を入れてようやく土がよくなってきたところだったのに,畑が荒れていくのは無念だった。2年後には畑は潰されて建設会社の事務所が建った。

そういうわけで,畑が私の原点であり,ある意味「離農」を一度経験しているので,「タイマグラばあちゃん」のような山村の生活を描いた映画にはひときわ感じ入るものがあるのである。

映画の感想を一つ一つ書いていけばきりがないが,タイマグラばあちゃんは何でもこなしてしまうスーパーおばあちゃんだった。奥様方はすごいすごいとうなりながら映画を見ていた。

たしかに日本一といわれる山奥で長年夫婦だけでくらしていたのだから,ただの人ではないはずだ。そして生活に美しさがある。私など人に見られなければどうでもよいと思ってしまうが,ばあちゃんはじいちゃんが亡くなって一人になってもきれいに料理をつくって食べていた。

タイマグラは長い間ばあちゃんの家一軒だけだったが,昭和63年以降移住者が続き現在は6世帯17人が暮らしているという。監督の澄川嘉彦さんはNHKを退職してタイマグラに移り住んでこの映画を撮影したと聞いていたので,年輩の方かと思っていたが経歴を知って驚いた。昭和63年に東大を卒業し,翌年にタイマグラばあちゃんと出会ってるのである。

移住者の中には監督さんと同年代の早稲田大学出身者がいたり,映画に出ている奥畑さん夫妻にしてもやはりインテリである。そうした人たちを引きつけるだけ魅力をタイマグラばあちゃんは持っていたということである。

タイマグラで人間本来の畑のある生活を実践している人たちが,私はうらやましくてしょうがない。


映画が終わり外に出ると,

「失礼ですが,おたくこの映画を見るためにわざわざ来たのですか? インターネットか何かで知ったのですか?」

と突然話しかけられた。

「そうです。タイマグラばあちゃんのホームページがあって,今回北海道で初めて上映されるということで来たのです」

と答えると,

「そうか,それでみんな来たのか」

と妙に納得されてしまった。どういうことなのかと尋ねると,今日13時過ぎから突然人が続々と集まりだし,これは今までの映画祭になかった現象なのだそうだ。しかし,タイマグラばあちゃんを見るためにみんな集まってきたのだとは私には思えない。今年は新聞で大きく取り上げられ,映画祭のホームページができたことや,ギリヤーク尼ヶ崎さんが来たことなど,いろいろな原因が合わさって人が集まったのではないか。ただ,会場の収容力もないので,あまり有名になっても困るのだろう。

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