北海観光節小さな旅行記滝上の7つの体験

郷土館

陽殖園には2時間ほど滞在し,10時40分,道の駅「香りの里たきのうえ」に着いた。

ここは当初の予定には入っていなかったのであるが,お土産を買いたいという私のわがままを聞いてもらって,20分ほど時間をいただいた。

ここのお土産屋がすごいのだ。ほとんどが滝上オリジナルの商品である。

25年前に滝上を訪れたときも,当時は珍しかった地場の素朴な焼き物がたくさん売られていたのが印象的だったが,現在はより洗練され「流氷焼」のブランドで販売されている。

木工芸品のコーナー。最近は占冠村なども同じ路線で木工芸品を売り出しているが,滝上はまた一段とすごいと思った。

11時ちょうど,滝上町郷土館に到着。本来は11時からハーブガーデン見学の予定だったが,予定を変更して郷土館を見学することになった。実は私も郷土館にとても来たかったのであるが,道の駅に寄ってもらうというわがままを聞いてもらった以上,さらに郷土館にも行きたいとは言い出せなかった。しかし,誰かが察してくれたのであろうか,立ち寄ることになったのは良かった。

滝上は殖民区画が設定された明治41年以降,本格的な開拓がはじまり,大正7年渚滑村から分村して滝上村が成立。二級町村のまま戦後を迎えたが,昭和22年に町制を施行している。昭和22年の町制施行は,道内の町の中でもかなり早いほうである。林業の活況から,昭和30年にピークの13,464人を数えている。これは国勢調査の数字であり,飯場暮らしの季節労働者を含めれば,一時的には20,000人ぐらいが住んでいたのではないだろうか。

その林業は結局まちに何を残したのだろうか。日高の樹魂まつりにおける木遣り,穂別の流送まつり,置戸の人間ばん馬など,イベントとして林業労務の一部が継承されている例はあるが,木を切るだけ切って,地元に何も残さなかったという例は多い。その理由として,北海道における森林伐採の多くは営林署による国の事業として行われており,地元の人たちは単に労働力としてそこに参加していたに過ぎなかったという事情がある。

しかし,滝上では「鳥居立て」の文化が今も残っているという。山の仕事は仕事は危険なだけに,信仰は厚かった。12月12日の山の神の日に備えて,山の中の「素性の良い木」を選び,鳥居立てをする。鳥居は釘を使わず,材を組み合わせて作り,しめ縄を張り,御幣を下げる。根元の雪の上に丸太を並べ,酒や餅,海のもの山のものという供物を飾った。

現在町内に4つある造林業者のうち,1社のみがいまもこの伝統を守っているという。これは伐採対象が国有林であろうと民有林であろうと,造林業者が自らの文化として守り抜いてきたものである。いまは作業も合理化されて,鳥居立てする意味も薄らいできているだろうが,貴重な文化としてこれからも守っていってほしいものである。

 

ハッカの蒸留釜。この窯は,「地域活性化に役立つ近代産業化遺産」として経済産業省の認定を受けている。知らなかったが,滝上は全国でもほとんど唯一ハッカの商業生産を行っている町であり,生産量の全国シェアは95%だという。

展示物の中に「文化の神が宿る町」という昭和60年の新聞記事を見つけた。

「サマイクルカムイ―アイヌの『文化の神』,その昔,文化の神が渚滑川を上って,町にやってきた,という神話が語り継がれている」

という書き出しで始まるこの特集記事には,「文化の神が宿る町」の担い手として数名の方が紹介されていたが,その中に,今回のツアーでお世話になった,竹内正美さんと高橋武市さんがいた。

 

当時竹内さんは37歳,高橋さんは44歳。当時から既に注目されており,記事に書かれている夢を着実に実現されてきた結果,いまがあるということがわかった。

SL館には大正8年製造の9600形蒸気機関車が保存されている。道内の蒸気機関車保存施設の中でも,保存環境は抜群に良いほうだろう。

「新鐡道地図」(三省堂,1933)

今回のツアーで確認したかったことの一つが,渚滑線の位置づけと,滝上と近隣市町との関係だった。鉄道は例外なく開拓時代には非常に重要な役割を果たしたものと思う。しかし,滝上を通る渚滑線の場合,線路は札幌や東京に向かって逆方向に延びていた。

一方,ひと山越えれば名寄本線が通っていた西興部に出ることができたし,浮島トンネルの開通は昭和59年まで待たなければならないが峠越えの旧道は昭和9年に上川まで全通していた。士別に通じる上紋峠越えの道道も昭和37年に全通している。陸の孤島のような位置ではあるが,ある意味各方面とつながりのある交通の結節点だったという見方もできる土地柄である。

「道内時刻表1981年10月号」(弘済出版社)

しかし,館内を案内していただいた郷土館の方に話を聞くと,渚滑線は廃止されるまで,都市間輸送の役割をきちんと果たしていたという。

渚滑線は渚滑駅で名寄本線に接続し,旭川や札幌へは名寄経由と遠軽経由の2ルートがあったが,名寄経由のほうが利便性が高かったようである。手元にある昭和56年10月の時刻表を見ると,北見滝ノ上を5時40分に出ると,名寄本線の渚滑駅で札幌行に乗り換えとなり,札幌には12時10分に着いた。帰りは札幌を17時10分に出るとやはり渚滑までは直通し,乗り換えは1回だけで北見滝ノ上に23時22分に着いた。これは現在の特急オホーツクなどと比べてもそれほど遜色のあるダイヤではない。

「道内時刻表1981年10月号」(弘済出版社)

渚滑を出た列車であるが,興部から急行「紋別」を名乗り,旭川で網走から来た急行「大雪2号」に併結,さらに深川で幌延からの急行「はぼろ」を併結し,実に13両編成,いわゆる3階建ての急行となって札幌に向かった。帰りはこの逆である。まさに隔世の感があるが,この札幌連絡ダイヤは渚滑線廃止まで維持されている。

しかしながら,浮島トンネル開通後まもない昭和59年6月27日に道北バスが特急オホーツク号の運行を開始,滝上〜旭川の所要時間は4時間台から2時間18分に大幅短縮され,翌60年3月末で渚滑線は廃止されている。

ただし,現在,出張などで札幌に行くのに,もっぱら直通の高速バスが利用されているかというと,そうではないというのも意外なことだった。旭川または上川,あるいは名寄までマイカーで行ってJRに乗り継ぐというケースが相当あるらしい。

最期にhatta氏が見せてくれた手書きの収蔵品目録。1万点に及ぶ収蔵品がすべて手書きで記録されているという。

郷土館は25年ぶりの入館であった。次に訪れるのはいつになるだろうか。また25年後だとしたら,私はもう還暦だ。25年前のことがつい昨日のように思い出されるのに,時間の過ぎる速さが怖く感じられる。

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