礼文路

ちゃんちゃん焼き

知床から香深に戻ったところで昼時となった。Sさんは食べるならここしかないという具合に「ちどり」に案内してくれた。

ホッケのちゃんちゃん焼定食,1300円

なにせ,北海道名物・ちゃんちゃん焼きの発祥地がこの店なのだという。ちゃんちゃん焼きといえば普通は鮭なのだが元祖はホッケなんだそうだ。そのような話を聞くと,温泉旅館のバイキング会場の一角で実演しているようなちゃんちゃん焼きがずいぶん怪しいものに感じられてきた。
それにしてもこの店は熱い。灰が舞い散るので窓は開めきっており室内は熱気むんむん。さらに炭火からの放射熱が焼け付くよう熱く,まさにサウナのようである。大阪から来た観光客も,「礼文は涼しいと聞いていたぞ」と嘆いていたが,店の人は「これがうちの名物ですから」と一笑に付していた。
味のほうは素晴らしかった。私が今まで食べたものの中では,いちばんおいしかったかもしれない。「熱さ」が味を増していたことも多分にあると思う。苦痛を経験してこそのおいしさ,崇高なる美味というものをここで初めて味わったような気がする。

礼文はうにも有名だが,うにの時期には少し早かった。うに丼は有名だが,Sさんによれば「どんぶりうに」というものがあるらしい。ご飯とうにの関係がうに丼と逆になっているのである。値段とは桁一つ違うそうだが,年に2,3人は挑戦する人がいるという。


香深港。私は山の人間なのでこういうところに立っているとストレスを感じて逃げ出したくなる。Sさんは室蘭出身なので,こういう風景は見慣れていると言っていた。


開店を1週間後に控えたセイコーマート。礼文島初のコンビニである。島民にとっては待望のコンビニ開業だろうが,既存の商店への打撃は避けられない。もしかすると今度礼文に来るときには街が全然変わっているかもしれない。


見内(みない)神社。正面は海側にあり,両脇を取り囲むように参道が配置されているという非常に珍しい形式である。美しい新妻が戦場へ向かった夫を待ちわびてついに化神したというアイヌの悲恋伝説に彩られている。


立派な体育館。Sさんは最近バレーのサークルに入ったらしい。島にいたらそんなに遊びに行くところもないので,スポーツなどのサークル活動が盛んなのだそうだ。


水中公園。水が澄んでいるので海の底がよく見えるが,特に何もない。


Sさんいわく,「礼文でいちばん立派なトイレ」


カントリーサインではないが,各集落の入口にはこんなかわいい看板が建っている。内路は礼文岳の登山口で,登山口の近くには味のある郵便局があった。

内路(ないろ)小学校

へき地4級,児童12,教員5

この学校も沢の奥の窮屈なところに建っており,さらに奥に教員住宅があった。

礼文高校

普通科,生徒83,教員13


礼文島唯一の高校。昭和53年,稚内高校礼文分校として開校,同55年に独立した。この高校を卒業して島に残る人はどれぐらいいるのだろうか。たぶん思ったよりも多くの人が島に残るのではないだろうか。礼文は漁業でしっかりとした収入があるので,一般に思われているほどには過疎化が進行していない。

へき地学校について(その3)

□□□へき地教育の実情□□□
その1に書いたように私は小さな学校に大変興味を抱いていた。しかしへき地教育について書かれた文献を読むうちに,へき地の学校はそんなに平和なところではないということもわかってきた。
例えば授業である。少人数の学校では複数の学年で1教室を構成する複式学級の形がとられる。前と後ろ,あるいは横にも黒板がついていて,学年ごとに黒板を分け,先生が行ったり来たりしながら説明するのだ。しかし,これはそんなに単純なことではない。一方の学年に先生が説明している間,他方の学年は自習時間になる。子供がそんなにまじめに自習するわけがないし,先生が説明する時間も普通の学校に比べて半分になる。これでは都会の学校と同じレベルの授業が行えるはずがなく,子供の勉強は遅れるばかりである。また先生の数も少ないため,中学校においては免許を持っている教科以外の教科も受け持つこととなり,突っ込んだ内容の授業ができないという問題も生じてくる。
へき地教育の研究も時代と共に発達してきて,いまでは学年ごとに交互に説明するのではなく,同じ単元について複数の学年に一度に教える方法もとられているという。いずれにしても複式学級で授業をうまくこなせるには長い経験を要するのであるが,少し慣れてきたころには大きな学校へと転勤してしまい,また新米の先生がやってくるのである。へき地教育の達人になろうと思えば,自らの家族をも犠牲にするような献身的な精神を要するのである。
小さな学校が好きで小さな学校ばかりまわっている先生がいる。だから小さな学校には優秀な先生が多い。私はこのように思っていた。しかし,これも妄想かもしれない。自分の意に反してへき地への赴任を命ぜられ,地域の人ともなじめずに数年を過ごし,逃げるようにして学校を去っていく先生が実は多いのかもしれない。実際,小規模校の先生の年齢構成をみると,20代の新米教師と年老いた校長・教頭で構成されていて,30代,40代の力のある世代がいない。学校の先生とて自分の家族が一番大事だから,子供を進学校に入れるために都会の学校への勤務を希望するのである。
へき地の子供も私が思っていたほど優秀ではないという。絵を描かせたらへき地の子供よりも都会の子供のほうがのびのびと描くという。都会の子供は牛の絵を描けないというが,だからといって毎日牛を見ているへき地の子供が牛の絵をうまく描けるわけでもない。周りを自然に囲まれていても,そこから得ているものは非常に少ないようだ。概してへき地に暮らす人たちは物を考えずに毎日淡々と暮らしている。よく小説に出てくるように,立派な哲学を持っている農民や漁民もいることはいるが,それは変わった人であって,多くの人は頑として物を考えようとしない。親が考えることをしなければ,子供の頭脳も発達しない。(その4につづく)

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