三陸初日の出の旅

初日の出

初日の出は今回の旅でいちばん楽しみにしていたイベントだ。わたしは今まで初日の出を見たことがない。
一度だけ見に行こうと思ったことはある。小学6年の正月,昭和64年の初日の出である。その年の暮れは天皇陛下の容態が悪くなったり,十勝岳が爆発したり,妹が生まれたり,大変だった。来年は穏やかな年になるようにとの切実な願いがあったのだろう,わたしは大晦日の晩,祖母と初日の出を見に行くことを約束した。家から5分も歩けば十勝岳から昇る陽を拝める場所がある。

「十勝の岳に 昇る陽の 希望の光 野に満てり」(上富良野小学校校歌より)

元旦の朝,やはり起きれなかった。もうすっかり明るくなってから目を覚まし,祖母に合わせる顔もないと思ったが,祖母もまた「ばあちゃんも見に行くのやめたんだ」と言った。祖母は一度言ったことは絶対曲げない頑固な人だった。初日の出を見に行くと言えば,孫をたたき起こしてでも見に行く人だった。それがあっさりと「やめた」というのを聞いて,疲れているんだなと思った。祖母は心労が重なってその数日後吐血して入院し,次の年の秋に亡くなった。


平泉で初詣をしてから三陸海岸に出て初日の出を拝むコースはかなりメジャーらしく,例年臨時列車が運行されて盛況だという。しかし,そこまでして日の出を見に行こうとするのはいったいどういう人たちなのか興味があった。ただ例年全席指定で運行される臨時列車が今年は全席自由席になり,釜石〜宮古間の臨時列車が廃止となった。


一ノ関駅で改札を待つ人たち。地味な格好をした独り者の男たち。明らかに鉄道マニアの集団である。


マニアのお目当てはこれだろう。この秋国鉄色に復元されたキハ58系気動車。これが「初日の出釜石号」である。

3時5分,一ノ関駅発車。

車内はがら空きで,十分に1人1ボックス使用できた。「盛況」とは言えない。乗車した車両はキハ58-1523で,昭和43年新潟鐵工所製。乗る位置は2両目の後ろ側と決めていた。蒸気機関車の時代は後ろの客車は蒸気暖房が届かず寒かったそうだが,気動車の場合後ろのほうが暖かい。
ちょうど座ったところがエンジンの真上だと近くの人が教えてくれた。そこまでは知らなかったが,ならばとデジカメで発車時のエンジン音を録音したりと,わたしもかなりマニアックなことをやっている。ただJR東日本のキハ58形は全車エンジンを換装している。
途中,北上や花巻からも多少の乗車があったが,車内のマニア率は80%を越えていた。
にしても寒い。暖房の調子が悪いようだ。キハ52形の場合は冬期にビニルテープで窓を目張りするのだが,キハ58形はやっていないらしく隙間風がびゅんびゅん入ってくる。もともと2重窓の北海道の車両ではこんなことはない。車掌がガムテープを持って目張りにまわっている。ガムテープもそんなにないので最初は頼まれたとこだけ張っていたようだが,うとうとして目を覚ますと目の前に車掌が座ってガムテープを貼っていて驚いた。どうやら途中の駅でガムテープを積み込んだらしい。この車掌なかなか気が利く。この車掌さんにはこのあと盛岡までお世話になることになる。元旦からお仕事ご苦労様だ。
トンネルに入るたびにガツガツガツガツと音がして目が覚める。トンネル内にぶら下がったツララに列車がぶつかる音らしい。これも冬の東北ならでは。北海道ではこの音を聞いたことがない。

5時42分釜石到着。まだあたりは真っ暗。釜石から船に乗ったりして日の出を楽しむ旅行プランが用意されているはずだが,ほとんどの乗客は6時32分発宮古行き普通列車を待つ。ここからの山田線はキハ100系4両編成で海側の席を用意に確保できた。


よく知られているように三陸海岸はでこぼこのリアス式海岸で,水平線を望むところはあまりない。車窓から水平線の日の出が見えるとすれば,浪板海岸駅−岩手船越駅間が唯一と予想していた。しかし,写真のように海上には厚く雲が垂れ込め,初日の出は望めなかった。水平線から太陽が姿をあらわすのは6時52分のはずだが現在7時ちょうどである。道路沿いの眺めのよいところには車がたくさん停まっていた。


しかし,初日の出は拝めた。7時18分陸中山田駅に運転停車中,船越半島から昇る太陽が見えた。これだけ見えれば満足だ。

ちなみにここで日の出の写真を撮っていたのは他に1名だけだった。列車には鉄道マニアがたくさん乗っていたのだが,やはりマニアというのは景色とかそういうことに関心がないらしい。

次へ