本日の朝ざくらは日本のさくらの名所100選・千秋公園。桜の木の下でラジオ体操。
8時16分,金浦駅到着。今日は日曜日だが高校生が多数下車し,ここからバスに乗ってそれぞれの高校へ向かっていった。
金浦は昔からの漁村だが,ぴかぴか光った瓦屋根の民家が軒を連ねる風格ある街並みだ。
勢至公園
秋田で最も早く開花するという勢至公園の桜。旅行に出る前から満開の知らせが届いていたのでもう散っているだろうとあきらめていたが,ちょうど散り際で,地面が桜色に染められていたのは素晴らしかった。この桜は日露戦争の生き残りの兵士たちが凱旋の喜びを託して植えたものだという。
日本では花といえば桜であり,他の花とは格違いの趣がある。しかし私は人生経験が足りないためか,たんにきれいな花としてしか見ることができない。私にはまだ桜を観る資格がないのではないかとさえ思う。
「桜の木の下には屍体が埋まっている」
これは梶井基次郎の言葉だが,衝撃的である。この屍体は戦没者を意味しているのではないらしいが,明治以降何度かの戦争を経て,桜は軍国の花,靖国の花としてのイメージを濃くしていく。
島倉千代子の"東京だよおっ母さん"ではこんな風に歌われている。
やさしかった 兄さんが 田舎の話を 聞きたいと
桜の下で さぞかし待つだろ おっ母さん
あれが あれが 九段坂
逢ったら泣くでしょ 兄さんも
作詩:野村俊夫 作曲:船村徹 歌:島倉千代子「東京だよおっ母さん」より
私が桜にそれほどの深い思い入れを持てないのは,子どもの頃から身近に桜の木がなかったためでもあるが,仮に桜があったとしても北海道の桜はソメイヨシノではなくヤマザクラだということがあろう。ソメイヨシノは幕末の江戸で生まれ,以後爆発的に全国に広まった園芸品種である。ソメイヨシノは若芽が出る前に華やかに花を咲かせ,一瞬の開花のあと,凄惨なまでの落花を見せる。この様子が日本人特有の無常観をそそった。ソメイヨシノでなければ桜が死の花となることもなかったであろう。
桜につつまれた勢至山。
湖の縁をぐるっと歩いて勢至山のふもとまで来た。桜の花びらで染められた山道,苔むした石段,こんのものを見つけたら登らずにはいられない。
観音潟を見下ろす。
これこれ石の 地蔵さん
西へ行くのは こっちかえ
だまっていては わからない
作詞・作曲:米山正夫 歌:美空ひばり「花笠道中」より
公園内には西国三十三観音像が点々と続いている。村ぐるみで西国に巡礼団に派遣し,石仏の模写,向き,背景のスケッチを行い,1857年に完成したものだという。
山頂にはお堂があった。ここに地元のおじいさんがいて少し話しをした。もともとのお堂は蝋燭の火の不始末で焼けてしまったそうで,もとはもっともっと立派な神社だったそうである。
「ここの公園はいいでしょう。」
「そうですね。今日は桜がとても良かったですよ。これから白瀬さんの記念館に行きたいんですが,どっちに行ったらいいですか。」
「そうだなあ。この道を戻ったほうがいいかなあ。そこをちょっと降りたら見えるから,行ってみな。でも迷うからそっちは行かんで戻ってきたほうがいいなあ。」
と言われたので,ちょっと坂を降りてみると,見晴らしの良い場所に出て,記念館の建物が見えた。思っていたよりも遠い。
また道を引き返したらさっきのお爺さんとすれ違ったので,
「けっこう遠いですね」
と言ったら
「なあに,すぐだよ」
と一蹴された。そうだ,白瀬さんを尊敬する者が,1キロや2キロの距離を遠いなんて言うもんじゃない。深く反省した。
白瀬南極探検隊記念館
白瀬記念館は今回の旅行で最も来たかったところの一つである。白瀬矗は1861年生まれで,日本で初めて南極探検を行った人である。白瀬さんは私が尊敬する人物の一人である。
なぜ尊敬するのか。それは次の「白瀬五訓」に言い尽くされている。探検家というと無茶なことをやってそうなイメージがあるが,白瀬さんは日頃からこの五訓を忠実に守って慎ましい生活を送り,千島探検や南極探検を無事に成し遂げた。帰還後は恵まれない生活を送ったが,探検で作った借金を自力で返済し,85歳まで生き長らえたのである。私は基本的に長生きの人が好きである。
9時50分からおーろらドームで映像の上映があるとのことだったが,汽車の時間が迫っているので全部は見ることができない。職員の方が最初だけでもぜひ見ていってくださいと言うので見てみたが,はじめの10分を見る限り全然たいしたことがなかった。
ぎりぎりまでねばっていたので発車時刻が迫り,1.5km先の駅まで汗かき汗かき急ぎ足で最後はやっぱり走ってしまった。ゆとりを持った旅行をと思っているのだが,毎回どこかで走る場面が出てきてしまう。
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さくらと私 その3 「桜肉」桜肉とは馬肉のことである。 わらにまみれてヨー 育てた栗毛 |