北海観光節旅行記北東北観桜紀行

寺の下寺院群

この盛岡城跡の南側の一帯は昨日見た北山寺院群と同様,盛岡の城下町の創成期につくられた寺町である。

大慈寺

 

原敬の墓がある。墓石には遺言により戒名や位階勲等は記されず「原敬墓」の3文字のみ刻まれている。平民宰相と言われた人らしい墓だ。

青龍水


古くからの生活用水。

千手院

惣門通り

 
惣門は城下町の入口で,旅人たちを取り調べたところ。写真右は木津屋本店で,当時活況を呈した商家の面影を残している。

円光寺

 
写真では桜に隠れているが,左にもう一本カツラがあり,夫婦カツラと呼ばれている。樹齢300年の大木は見事。境内には戦時中に総理大臣を務め,終戦処理に尽力した米内光政の墓がある。

明治橋際の御蔵

このあたりは北上川舟運の要衝として東北本線開通まで賑わっていた。かつては河岸に御番所,舟宿,お蔵などが建ち並んでいたというが,現在はこの1棟を残すのみ。飢饉に備えて穀物が収蔵されたという。

明治橋

 

その名のとおり明治7年にはじめて架けられた橋で,それまでは舟橋がかけられていたという。舟橋とは20隻の船を鎖でつなぎとめ,その上に板を敷き人馬を渡したもの。

寺の下寺院群はここまで。このあとは盛岡城跡の岩手公園に向かって歩いていく。

新渡戸稲造誕生の地


5千円札によって岩手の顔とまで言われるようになった。北大のポプラ並木の近くにも新渡戸像がある。

下ノ橋


盛岡は一名「擬宝珠の町」といわれる。これは盛岡城築城の際,中津川に上ノ橋,中ノ橋,下ノ橋を架け,京都の三条大橋を模して擬宝珠を取り付けたもの。有名なのは,上ノ橋の1609,1611年製の青銅擬宝珠で国の重要美術品に指定されているが,下ノ橋の擬宝珠も貫禄がある。
私はこれを擬宝珠ということを初めて知ったが,旭川にも擬宝珠のついた橋がいくつかあって,子どものころそれをションベン橋と呼んでいた。親が擬宝珠だと教えてくれたのがションベンに聴こえたのか,なぜそう呼んでいたのか不思議である。


中津川の河畔では消防の演習が行われていた。

岩手公園


石垣が見事な盛岡城跡。1598年に着工し1633年完成。現在は国の史跡に指定されている。

 
うっそうとした堀は子どもの遊び場になっていた。右は本丸跡から東側の眺め。桜の海のようである。


桜散る中での花見。こんな公園で花見ができる盛岡の人たちは幸せである。盛岡の人たちのおおらかさはこうした恵まれた環境から来ているのかもしれない。


桜山神社

烏帽子岩

旧岩手銀行本店


国の重要文化財に指定されている。現在は岩手銀行中ノ橋支店となっている。

 

 

古本屋や本屋を散策して歩く。岩手の郷土図書はそれほど多くなかった。北海道には歴史がないといわれるが,実は北海道ほど郷土出版物が豊富な県もほかにあまりないのではないだろうか。


大通アーケード街は歩行者天国になっていた。盛岡は地方都市にしては珍しく中心街が元気なようで,空き店舗もほとんどない。秋田では閉店セールをやっている店が目立っていた。


北上川の花壇。早くもチューリップや芝桜が咲いていた。


昼食はらーめん八珍亭。一昨日この店の前を通りかかったとき,高校生が「ハッチンテーいいよねー」と言ってたので,おいしい店なのかと思って入ってみた。

昼時なのにお客が少ないのには驚いたが,働いていたのは職人さんだしけっこう良かったと思う。激辛みそらーめん650円+ライス180円。

なお,このところ激辛のものばかり食べているように思われるかもしれないが,激辛とはいってもそんなに辛くはなくて,私の地元の旭川周辺では普通の味噌ラーメンでもこのくらいの辛味はある。旭川で激辛味噌ラーメンというとこんなものではなくて,およそ人間の食べるものとは思えない辛さである。

少しのんびりと歩きすぎた。きちんと計画を立てて歩いて盛岡駅にはもう少し早く着きたかったところだ。

さくらと私 その7   「佐倉さくら」

忘れちゃいけない昭和51年組の演歌歌手いる。このコーナーの最後飾るにふさわしいその人の名は佐倉さくら。この人も上原さくらに負けず劣らずきれいな方である。テレビ東京系の演歌百撰にかつてレギュラーで出演しており,北海道ローカルの演歌番組「北の演歌一夜」にも準レギュラーで出演していた。私は演歌百撰という番組が好きだった。街頭アンケートで好きなテレビ番組を聞かれたときにも迷わず「演歌百撰です」と答えたほどだ。学生の頃,日曜の深夜,さあ明日からまた講義だというときにこの番組を見ると,なんとかまた頑張ろうという気が湧いてきたのである。
しかし,釧路ではテレビ東京系のTVHが入らない。したがって,佐倉さくらももう2年余り見ていない。今も元気なんだろうか。 「最後でいいの」という歌が好きだった。

次へ