北海観光節旅行記清水沢まつり&楓まつり

登川・楓

わたしはバスで戻ることにして,もうしばらく駅を観察する。


一日一往復かつ日曜運休の極限的な時刻表。

 
待合室にはノートが置かれていた。詳しいことは知らないがゲームに楓という登場人物がいるそうで,この駅にはその筋の訪問者も多い。イラストを書くためかカラフルなボールペンや色鉛筆が備えられており,ほのぼのとした雰囲気だった。

 
駅名板。左は普通列車が発着する3番ホーム,右は定期列車が1度も停車することのなかった本線ホームのもの。3番ホームのほうは最近盗難に遭ったのか,あるいは盗難に遭う前にJR側で取り外したのかわからないが,新しいものに交換されていた。


駅前のバス停には「楓駅廃止に伴い3月13日より繰り上げ運行致します」の張り紙が。これはいったいどういうことか。新夕張方面から楓駅まで列車で来て,ここから楓市街までバスで行くという利用を想定していたのか。あるいは楓駅を訪れる鉄道ファンのためのダイヤ設定だったのか。


7時20分発の清水沢駅前行きには地元の人2名とファン3名が乗車した。

わたしはバスをもう1本遅らせて,周辺を散策する。


駅前には郵便局と店が1軒あるだけ。しかしこれが楓のすべてではない。


駅を出て右に向かうと登川,左へ行けば楓の集落がある。夕張線登川支線の旧楓駅,旧登川駅の中間に石勝線の楓駅をつくることにより登川支線を廃止することができたわけだが,結局どちらの集落からもかなり離れたところに駅ができたことになり,利用者はバスに流れた。石勝線開業当初は一日214人の乗降客があったが(『国鉄全線全駅』,1983.7),最終的には一日1.2人にまで落ち込んだ。

登川


登川のバス停は石勝線のシェルターの脇にあった。登川の集落はここからさらに500mほど奥にある。


登川の中心街,といっても人家が2,3軒あるだけ。右手の少し高くなっているところが線路跡と思われ,このあたりに登川駅があった。


夕張線の橋梁跡。

学校跡

登川にはかつて3000人が住んでいたといい,このあたりの山すそには炭鉱住宅がびっしり建っていたことだろうが,今では面影もない。

駅方面に戻り,今度は楓の集落を訪ねる。


旧国道沿いの楓市街は石勝線の車窓からも見ることができ,一度実際に歩いてみたいと思っていた。
写真左手の建物は「夕張市民生活協同組合登川3区店」の廃墟。正面,楓炭山橋の先にコンクリートのホッパーが見える。ここはいかにも炭鉱の集落らしい景色を残している。

道を歩いていると市営住宅から出てきたおじさんに声をかけられた。
「今朝は何人くらい乗ってましたかな?」
「100人くらい来てました」
「ホゲー,100人もかい。そじゃ10時のやつにはもっと来るな」

写真に小さく写っている青年とはこのあと占冠までほぼ同じ行程だった。


北炭楓鉱発電所。大正2年に竣工したが発電所として使用されたのは昭和3年まで。以降北炭真谷地炭鉱楓鉱の事務所などとして昭和62年まで使用された。その後改修されて1991年から1994年まではガラス工芸館として利用されたが,現在は使用されていない。


登川神社。古くは明治39年創設の楓神社と明治45年創設の登川神社あったが,大正11年に合祀され,昭和62年楓鉱の閉山により夕張神社に統合された。この神社は1991年,隣接するドライブインの手により旧楓坑々口神社跡地に新たに建立されたものである。


写真正面の木が生えているあたりに旧楓駅があったと思われる。左手の商店は楓市街で唯一まともに営業していた店。


旧街道という趣。


新聞店,呉服店。呉服店のある集落というのはそれなりのものだが,営業しているのかどうかは不明。


楓の中心街。

楓市街8:43発→清水沢駅前9:10着 夕鉄バス 石炭の歴史村行き

 
地元の人2名とわたしを含めてファンが2名乗車。バスにはこの奥に果たしてこんなに人家があっただろうかと首をかしげたくなるほどに多くの乗客が乗っていた。夕張は異常にバスの便が充実している。ふつう町というのは駅を中心に同心円状に人口が分布しているが,夕張は道路沿いに細長く人家が続いている。こうしたところではバスのメリットが大きいのだろう。それと車の免許を持っていない人が多いのかもしれない。

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