北海観光節旅行記ディスカバー阿寒

阿寒横断道路

 

昭和40年竣工の阿寒バスターミナル。一角にセイコーマートが入っている。

 

阿寒国立公園は道内で唯一国鉄の特定周遊指定地に指定されていた。ディスカバージャパン,一枚のきっぷから,いい日旅立ちといったキャンペーンにのって多くの観光客が訪れた栄光が建物にも染みついているようである。

阿寒湖畔14:20発→川湯温泉16:50 阿寒バス 阿寒パノラマコース301便

 

阿寒湖温泉−摩周温泉−摩周湖−川湯温泉−美幌−女満別空港−網走−斜里−ウトロを結ぶ阿寒パノラマコースも年々減便され,阿寒横断道路を走るのは1日2便となった。

まさに髪の毛1本でスーパーAクラスの観光地を結ぶ定期バスであり,何とか今後も存続してほしいものである。

バスは私のほか西洋人2名を乗せて発車,雄阿寒分岐を左折し,阿寒横断道路に入る。

阿寒横断道路は昭和5年10月に現在とほぼ同じルートで開通している。道路建設に大きな役割を果たしたのは当時道庁の釧路土木所長だった永山在兼で,永山は阿寒〜弟子屈間,弟子屈〜摩周湖間,阿寒湖〜足寄間の道路建設を押し進めた。まだ村に1台自動車があるかどうかという時代に,観光目的の道路を造ろうとした先見の明は驚くべきものがある。

双湖台からはほんの一瞬ペンケトーが見えた。後ろに車が着いていたわけではないのだから,すこしアクセルをゆるめるくらいのサービスがあってもよいところだが,女性の運転士は新米のようで,そんな余裕はなかったようである。

双岳台は木が茂って何も見えなくなっていた。

この双岳台が横断道路の最高所にあたり(標高747m),永山在兼の名をとって永山峠と呼ばれている。

 

郡境の永山峠を過ぎるとにわかに道は険しくなり,雪崩覆いが連続,半径30mという急曲線も現れる。次の文章を読めば,この道が昔どれだけ険しかったのかわかるであろう。

横断道路自動車運転第1号の伊藤保雄氏(後の阿寒バス社長)の回想。

「横断道路の開通式の車も私が運転しました。ひどい道路で,急斜面の路肩が崩れていくのですよ。私の車と土木の車2台とで通ったと思いますが,路肩が欠けるので板を敷いて通りました。そのため恐ろしくて帰りは通る気にならず,弟子屈から塘路を回って阿寒湖へ戻りました。家へ着いたら皆私の足を見るんです。本当に無事に帰ってきたのか,幽霊でないのか,足がついているのかとね。そんなひどい道路でした」

昭和26年観光の佐藤垢石『涼風ふたり旅』の一節。

「弟子屈から阿寒湖まで48キロ,次第次第に谷が深く,山が高くなって行くと原始林の樹海が山肌を蔽ふて,壮観,また幽邃。私はバスの窓口に吸いつくやうに額を寄せて,遷り行く大景観に眺め入った。幾度も幾度も窓の枠でおでこを打った。
バスが峠の頂を越すと,果然悪路にさしかかった。悪路と言っても私はこんな悪路は曽って見たことはない。バスは大海の怒濤にもまれる小舟のやうに,酔漢が千鳥足で夜道をよろめくように,生きた気持ちではいられない。右を見れば千仞の谷である。アワヤといえば命はない。車中の人はなぜ女房と水盃を交わしてこなかったであらうと歎く。女客は悲鳴をあげる。子供は泣く。大人は目を瞑って観念する」

いずれも『阿寒国立公園の三恩人』(種市佐改,釧路観光連盟ざつ学新書,1984)から引用

その後横断道路は昭和24年に大改修工事に着工,同47年冬季の除雪が開始され,同50年に舗装工事が完了して現在に至っている。

約50分で弟子屈市街に到着。ちょうど弟子屈高校学校祭の仮装行列に出くわした。

  

摩周駅で5分間の小休止。駅の売店には今年1月に登場した駅弁「摩周の豚丼」があった。駅前の「ぽっぽ亭」という食堂が考案したものだ。

摩周駅から東洋系の外国人を1人拾って発車。この青空なら摩周湖も見えそうである。

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