北海観光節旅行記29歳の北東北

三内丸山遺跡

今日は文化の日である。ということで,まずは縄文文化の遺跡である三内丸山遺跡を訪ねてみることにしたい。

青森駅8:10発→三内丸山遺跡前8:31着 青森市営バス 免許センター行き

青森の駅前に立つと,「三内丸山遺跡」の文字が至るところから飛び込んでくる。まるで世界遺産にでも認定されたかような騒ぎようである。

全国版の鉄道時刻表には遺跡まで所要40分と載っていたが,実際には21分で着いた。バスにはテープによる観光案内が付いていた。

三内丸山遺跡

9時開園なので,屋外の椅子でしばらく待つ。同じように開園を待つ人が10名ほどいた。

実は,わたしは縄文人が嫌いだった。呪いや人体改造など風習に,屈折した精神を感じて嫌だったのである。しかし同じように縄文人を嫌っていたというある先生が,三内丸山遺跡を見て縄文人に対するイメージが変わったという話を最近聞いて,一度訪れてみたいと思った。

三内丸山遺跡は古くから土器がよく発掘される丘として知られていたが,県営野球場の建設に先立つ埋蔵文化財の調査で大規模な遺跡の存在が確認され,1994年に野球場の建設中止を決定,遺跡の保存活用を図ることになった。2002年11月に縄文時遊館が開館し,今年7月には隣接地に県立美術館がオープンするなど,近年一段と注目を集めている。

縄文時遊館

遺跡の入口にある体験・展示施設で,愛・地球博の入場ゲートを思い起こさせるような豪華な建物だった。

 

中には長さ40mの大型スクリーンを持つ展示室や,体験工房があって,職員が何人も常駐していた。これで入館無料なのだから,青森県の力の入れようはすごい。

縄文時遊館のロビーから,およそ1時間おきに三内丸山応援隊のボランティアガイドによる遺跡ツアーが出発する。9時15分からの初回ツアーもけっこうな盛況だった。林野庁のOBだという説明員は,晩年の三波春夫先生によく似た容貌で,ありがたいお話を聞きながら遺跡を巡る。

遺跡を取り巻く通路は,見学のために造成したわけではなく,縄文時代の道路をそのまま復元したものだという。三内丸山の集落には最盛期で500人が住み,100棟の住居があったという。

南盛土 北盛土

縄文人は燃えるゴミと燃えないゴミを分別し,1000年にわたって同じ場所に捨て続けたという。その跡が盛土状に残っており,シェルターの中で断面を見ることができる。

子供のお墓。集落内では乳幼児のお墓が880も見つかっている。縄文人の平均寿命は30歳代前半だったといい,大人にならないうちに命絶えた子供も多かったことだろう。子供の遺体は土器の中に収められ,一緒に1〜2個の小石が入れられたという。どういう意図があったのかは定かでないが,縄文人の悲しみの気持ちが伝わってくるような気がした。

 

3棟の掘立柱建物。縄文時代の建物といえば竪穴式住居しか知らなかったが,このように柱を組んで建てた建物があったことは驚きだ。用途は倉庫であったとも住居であったとも言われ,集落の入口にあったことから迎賓館のような役割もあったのではないかとする説もあるという。

 

大型竪穴住居。集落の中で最大の建物で,床面積は約250m2もある。用途は不明で,見学者の想像するものが,すべてそうだった可能性があるのではないかということだった。

 

三内丸山遺跡のシンボルとなっている大型掘立柱建物跡。6本の巨大な柱の跡が発掘され,地面にかかっていた応力から柱の高さを想定して復元したのが写真右の構造物。あくまでも想像による復元で,ほとんど何もわかっていないらしい。

ただ,これだけの構造物を建てるということは,誰かが集落の人を統率し,ほかの集落からも人を連れて工事を指揮しなければならなかったはずである。これまで縄文時代には豪族や上層階級による支配関係はないというのが定説だったが,実は縄文時代にも明瞭な支配関係が存在していたのではないかということを,ガイドさんは結論としておっしゃっていた。

 

三内丸山遺跡展示室。出土品は縄文時遊館ではなくこちらに陳列されている。

ひととおり遺跡を見学して思ったのは,縄文人は案外普通なんだなということである。縄文人というと怪しげな呪術にとらわれた新興宗教の集団のようなイメージがあったが,三内丸山遺跡を見る限りそういう印象は薄く,同じ人間として価値観を共有できる部分も多くあるような気がした。

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