昭和・北海道地図資料館

北海道観光案内

昭和39年 日地出版

 

再び鉄道地図に戻る。2002年に札幌の石川書店で購入。2000円だったと思う。この年には東京五輪が開催され,東海道新幹線が開業した。しかし北海道の国鉄線はまだ全線非電化だった。北海道の特別急行列車の第2弾として「おおとり」が函館−網走・釧路間で運行を開始したのもこの年である。
本図は北海道全図と裏面に写真入の観光案内,市街地詳細図が掲載されているが,実用性にはいまいち乏しい。表紙の写真は月寒種羊場と思われる。昭和34年に羊ケ丘展望台が開設されたが,まだクラーク像などはなく素朴な観光地だった。


ニセコ周辺
「冬は馬そりで3時間」という説明が時代を感じさせる。この年,狩太町がニセコ町に改称されたが,駅名は少し遅れて昭和43年に改められた。寿都鉄道は昭和43年休止,同47年に廃止。


知床
昭和35年に映画「地の涯に生きるもの」が制作され,同39年には知床が国立公園に指定された。しかしいわゆる知床ブームが起こるのは同45年に森繁久弥作詞・作曲,加藤登紀子歌唱の「知床旅情」がヒットしてから。この地図にはまだ訪れる人もほとんどいない本当の秘境だった頃の知床が描かれている。
西側に見えている国鉄根北線は昭和32年に開業したばかりだが,日本一の赤字線となり,早くも同45年には廃止されてしまう。


神路付近
音威子府から神路にかけて鉄道も国道も天塩川の右岸を走っているように見えるが,これは誤りで,鉄道と国道の間に天塩川が流れていた。神路というのは地形図を見ればわかるが,今ではまったく到達することのできない場所である。大正11年に駅が開設され,駅周辺には林業労務者が入植して学校もできた。昭和38年に対岸を結ぶつり橋の神路大橋ができたが,これは駅周辺の人が国道に出るためではなくて,対岸の農家が農産物を駅に運ぶために架けられたものである。この時代になってもなお道路は不十分で雑穀の搬出は天塩川の船に頼っていたのである。ところが同年12月18日に突風により落橋。やっとできた橋が落ちてしまったことの絶望感と冷害により,同40年に全戸が離農した。本図は昭和39年1月,ちょうどそうした事件があった頃に刊行されている。神路駅は昭和52年に信号所化,同60年3月に廃止された。現在も線路沿いに駅舎の一部が残っている。


旭川市詳細図
旭川駅が昭和35年に民衆駅として建て替えられ,北海道内陸部の拠点として最も賑わっていた頃である。駅前通りは戦前には師団通と呼ばれていたが戦後は平和通と改称された。この頃には国道12号に指定されていた。昭和47年に国内初の歩行者専用道路「買物公園」となる。以降,昭和48年にそうご(現オクノ),同50年に西武デパートがオープン。同51年にマルカツが増床,同53年に丸井今井が新築移転,同54年にAms(現西武A館)オープン,丸井今井移転跡地に丸井今井広場がオープン(現Ash)。
駅前の「アサヒビール」は「アサヒビル」の誤りと思われる。


土産物
裏面の観光案内の一部。バター飴,熊の木彫りは昔からの北海道を代表するお土産。最後の「ラベンダー香料」に着目。一般にラベンダーが観光用の花畑として知られるようになったのは昭和50年代以降のことであるが,香料としては戦前から栽培され曽田香料に出荷していた。最盛期の45年には全道で235haものラベンダー畑があったとされ,これは現在の何倍もの面積になる。主産地は上富良野町であった。しかし輸入香料や合成香料に押され,昭和52年に曽田香料がラベンダー油の買取を中止した。おりしもその頃,中富良野町のファーム富田のラベンダー畑が国鉄のポスターによって全国に紹介され,観光客が訪れるようになったのである。

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