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殖民区画

●殖民区画について

 殖民区画は北海道の開拓期において非常に重要な制度であって,内陸部に見られる「東○線北○号」などの区割りは殖民区画によるものだが,特に若い人にはほとんど知られていないのでここで説明しておく。

 北海道の本格的な開拓の開拓は明治2年(1869)の開拓使が設置にはじまる。明治7年に始まる屯田兵制度はあまりにも有名で,北海道の開拓は何でもかんでも屯田兵だと思っている人が多い。しかし,これは大きな間違いである。

 明治19年(1886)の北海道庁設置により北海道の開拓は新たな段階を迎える。移民政策は,屯田兵や士族移民の直接保護政策から殖民地の選定や交通網の整備といった間接保護政策へと転換し,開拓の実施・保護は内地の資本家に委ねようとした。
 まず明治5年制定の「北海道地所規則」と「北海道土地売貸規則」を廃し,明治19年新たに「北海道土地払下規則」を制定。これは「無償貸し付け・一定期間後有償払下げ」の形で入植を奨励し国有未開地の開墾を目指すものだったが,さらに明治30年(1887)には,北海道土地払下規則を廃し,「無償貸し付け・成功後無償付与」の「北海道国有未開地処分法」が公布され,1人当たりの貸し付け面積の上限が大幅に引き上げられた。

 このような土地制度の改革と併行して実際に「殖民ニ適スベキ土地」の選定事業を開始される。殖民地選定は,入植地として適当な土地を調査し,区画測設を行うものである。基線を決めて大区画の中に300間(546m)四方の中区画を設け,その中をさらに150間×100間の小画6個に分け,この5町歩(ha)が1戸の割り当てとなる。殖民地選定事業は昭和21年まで続き,総選定面積は400万町(ha)に及んだ。
 このように区画測設が行われ道路,保存林,市街地,公共用地などの配置が決定されると25000分の1の殖民地区画図が刊行され,これに基づいて移住者への土地の処分が行われた。


殖民地撰定者の天幕住居(明治44)

測量伐木の景(明治44)
北大付属図書館編『明治大正期の北海道−写真と目録<写真編>』より

 さてニニウについては明治40年に殖民区画が設定され,「胆振国勇払郡ニニウ殖民地区画図」が刊行されており,それを現在の地図に重ね合わせると上の地図のようになる。

 南北に走る約1kmの舗装道路は殖民区画のはっきりとした証拠である。2線の1号から2号のあたりは区画どおりの畑が残っているし,ニニウ自然の国の遊歩道も殖民区画によるものだということがわかる。つり橋もそうである。ペンケニニウ川沿いは多くの入植者があったが,せまい谷間のため畑の形は不整形となっている。最北部の墓地予定地は発見できなかった。そこから北に分岐する沢は二線沢と呼ばれる。

ニニウの中心部を貫く約1kmの舗装道路はれっきとした殖民区画の証拠。 道路の脇には殖民区画によるあぜ道がはっきりと残る。

 このようにニニウに見られる建物やランドスケープは明治の殖民区画に由来する歴史あるものであって,ニニウでは単に自然だけではなく北海道開拓誌の一面を見ることもできるのである。

●入植形態

 ニニウにはどういう人たちが入植したのであろうか。農民として入植する場合,次の5つのようなケースに分けられる。。

○資金のあるもの

(1) 殖民区画に単独で貸付入植し,成功付与審査によって自作農になる
(2) 団体で大面積の貸付入植をして付与審査の後,個別の自作農になる

○資金の乏しいもの

(3) 自作農を目指して牧場・農場などの開き分け方式の小作農になる(開墾した面積の半分を自作農地として登記する契約で小作となる。投機目的の不在地主農場などで主に採られた方式)
(4) 農場・牧場など大面積所有者の小作農となる
(5) 演習林・学田地・御料地など国有地や準国有地の小作農になる
 (4,5の方式は裸一貫で入植するような場合で,小作料を払いながら資金をため,将来当地を地主から買い取るか,または別の土地を購入して自作農となることを目指す)

 ニニウへの入植者はおおむね(1)のケースだった。そして,明治43年以降の王子製紙による造材10年計画の影響もあり,ニニウは明治のうちに人口のピークに達した。ニニウが他と違うことのひとつに,入植者のほとんどが明治に入っているということがある。占冠村トマムが戦後,海外引揚者や疎開者によって急激に開発されたのとは対照的で,「ニニウは何を調べても歴史が古い」といわれる所以である。
 ニニウのような奥地は一般に開拓が新しい。特に戦争に伴う開拓移民は離農率が高かったが,ニニウのような明治以来の歴史のある部落で全戸離農したという例はまったく珍しい。
 「占冠村ニニウの実態と歴史」には,「資本主義商品作物を主題とする北海道の殖民地区画として,まったく道路政策を書いて行われた点にこのニニウの悲劇がある」と書かれている。

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