北海観光節旅行記秋の湯殿山・尾瀬

12. 細越峠

時刻は14時を回った。概ね時間どおりに来ていると思うが,湯殿山の参拝時間が16時までであることを考えると,さほど余裕はない。千手ブナには寄らずに進んだ。ここで初めて4名の通行人とすれ違った。

護摩壇石と道普請供養塔。正面の道普請供養塔は高さ2メートル以上あり,1853年に建てられたものだという。この山奥に,よくこれほどの石碑を建てたものである。

一瞬視界が明るくなった。送電線が街道を横切っている場所である。鶴岡側の十王峠からこのあたりまで,かなりの部分を六十里越街道と送電線が並行している。これは,両者とも尾根を行っていることからの必然であろうが,鬼峠とも共通している。

街道を少し外れたところにあった月山遥拝所。新しく作ったものだという。ここでも月山は雲に隠れて見えなかった。

ここまでで,ちょうど蟻腰坂の入り口から1時間がたった。歩いた距離は3km弱だと思われる。上りの片勾配ということもあり,平地を歩くときの倍以上の時間を要している。

さらに10分で,護身仏茶屋跡へ。このあたりで標高は800メートルを超えている。

斎藤茂吉歌碑。近年建てられたもので街道沿いに点々とあった。江戸時代の石碑に比べていかにも安っぽい。文字は機械掘りは仕方がないとしても,せめて写植文字にせず書家に頼めなかったものか。

いま長大な橋やトンネルで月山の麓を貫いている自動車道は,あと30年もすればガタが出てくるであろう。そのときはもう道路を直せる力が日本にはないであろうから,この六十里越街道が生活道路として復活するときが必ず来るはずである。そして未来の人たちが,江戸時代と現在の石碑を見比べたとき,現代という時代は文化的に貧しい時代だったと思うに違いない。

 

いよいよ峠に近づくと,切り通しの道が出てくる。まずは小堀抜(こほのぎ)

 

つづいて大堀抜(おほのぎ)

大堀抜を過ぎると,約1kmの坂が続く。その名も長坂という。

途中に一里塚があった。鶴岡城から8つ目の一里塚で,2007年になって発見されたものだという。往時の一里塚は道の両側に土盛りし,目立つ木が植えられていたという。ここでは道の両側の土盛りが残っている。

長坂は二の坂,さらに三の坂と続く。

細越峠

 

14時49分,標高約900mの細越(ほそごえ)峠に到着した。多層民家から高低差で560mほど登ってきた。

ここにも北前船で運ばれてきたという古い石碑があった。本当だとすれば,どれだけの苦労をしてここまで石を運んできたのだろう。

峠からは下り坂となり,時間を回復すべく駆け降りる。途中の湯殿山遥拝所は立ち寄らずに通過した。

もっとゆっくり旅してはと思われるかもしれないが,実際昔の人たちは,こうした山道を駆けて移動することが多かったはずである。いまは急ぐときには自動車を使えばよいが,歩くしかなかった時代に,本当に歩いていては仕事にならないからだ。

したがって,このような古道は駆け抜けてこそ,その真価がわかると思っている。これは近世の登山道と古道との大きな違いである。

 

途中,幹に文字が刻まれた木が2つあった。昭和7年と昭和6年のもので,80年以上たってもはっきり読めることに驚く。

 

峠から7分で「いーっぱい清水」に着いた。「水の補給はここが最適です」とあったので,かなりたくさん飲んでしまった。

 

そして一杯清水。量が少ないため一杯しか飲んではいけないという湧水で,ほんとうに細い水がぽたぽたと滴っているだけだった。

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